思想界の四次元殺法コンビ「橋爪大三郎&大澤真幸」に萌える一冊


『ふしぎなキリスト教』という本を読んだ。



われらが橋爪大三郎先生と大澤真幸先生との対談である。くどくど説明の必要はないのでしょうが、橋爪大三郎先生は、一般には、故橋本龍太郎元首相の弟と間違えられてしまう傾向が未だにあるものの、大変アクティブな社会学者としてご活躍である。一方の大澤先生も、『戦後の思想空間』を挙げるまでもなくアクロバチックな論理展開で読者を置いてけぼりに魅了するというだけでなく、実は意外に「マサチ可愛い」などと言う女性ファンも多いという噂もあり、本邦思想界のエースと言っても過言ではない存在である。よく知らないけれども。とにかく良くも悪くも、どんな内容でも面白くしてしまうという悪癖があるおふたりのかけあいですので読んでて飽きません。



例えば冒頭。大澤先生が、ユダヤ教とキリスト教がどう違うのか、と橋爪先生に問いかけるのだが、それに対する橋爪先生の答えはこうだ。

議論のはじめなので、ユダヤ教についても、キリスト教についてもよくわからないという前提で、ふたつの宗教の関係を端的にのべてみましょう。
 では、その答え。
 ほとんど同じ、です。

豪胆である。もちろんここから補足があってそこには一定の説得力があるのだが、それよりもなによりも賞賛されるべきはその豪胆さである。全盛時のみのもんた(おもいっきりテレビ時代)の切れ味を完全に凌駕している。大澤先生の苦笑いがまざまざと思い浮かぶではないか。



それから、一神教における「神」という存在と、我々日本人が考える「神」との違いに触れた部分がこれまたイカしている。なお、本書では一神教の神の特異性を強調するために一神教の神を「God」と表記している。

Godは、人間と、血のつながりがない。全知全能で絶対的な存在。これって、エイリアンみたいだと思う。(中略)Godは地球もつくったぐらいだから、地球外生命体でしょ?
 結論は、Godは怖い、です。怒られて、滅ぼされてしまっても当然なんです。

「でしょ?」じゃないだろ。 さらに、それに対する大澤先生の対応を以下に示そう。

橋爪さんらしい明快で、ユーモアのあふれる説明ですね。

NHKの解説委員か! ちなみに、ここだけ切り取ると「大ちゃんの強引ながぶり寄りにタジタジとなるマサチ」という構図を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれないが、それは完全な誤解だ。この直後に、大澤先生は、なぜか昔読んだという丸山真男の宇宙起源論を突然思い出して披露するという荒技で一気に土俵中央まで盛り返している。次元を超えた空中殺法の応酬である。ここでのやり取りは本書のひとつのヤマ場であるから是非直接確認していただきたい。




さらにいくつか見てみよう。大澤先生がクリスチャンがよく口にする「アーメン」という言葉の意味を訊ねる場面がある。橋爪先生は次のように答えている。

「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「〜するゾー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。

豪胆である。キリスト教を新左翼に例えるという禁じ手を繰り出してくるあたりがさすがである。


次は、キリスト教における愛と律法の関係について議論するなかで、ヤハウェがアブラハムを選び出して呼びかけたという聖書の記述について話題が及んだ箇所での橋爪先生のご発言。

じゃあ、なんで呼びかけたのか。ちなみに、見ず知らずの誰かに声をかけて「ついておいで」と言うのを、ナンパという。神が、そういう行為をした。それは、仲よくしたいということでしょ、簡単に言えば。

簡単に言うな!



大澤 いずれにせよ、キリストの贖罪の論理というのは、なかなか難しい。・・・・ちょっとピンとこないところもある。ピンとこないというのは、あえて言うと、神様というのはなかなかユニークな性格の方ですね、ということなんですが(笑)。

あんたもや!



橋爪 この解釈なんですけど、神はなぜアベルの捧げものを喜び、カインの捧げものを喜ばなかったのか、書いてないんです。ここは読みようによってはたいへん理不尽に思える。ここは違和感なかったですか?


大澤 大いにありますよ。ただ『創世記』の特に最初のほうは、おかしなことが次々に起こるので(笑)、がまんして読めるんですよ。

ここはワロタwww




大澤 キリスト教というのは、ボールが存在しているはずのない真空の場所で思いっきり素振りしたら、どういうわけか真空の中から飛び出してきたボールに当たって、そのままスタンドインのホームランになってしまった、というような仕方で影響を残していると思うことがあります。

どういう仕方や!
聖書に影響されたのか、喩えの方が難しくなっている。






以上みたように、読み物として非常に面白いのだが、もちろん内容的にも初心者の私には面白かった。以下、アフォリズム風に、気になった表現を説明なしに羅列していく。気になる箇所があれば本書に直接あたっていただきたい。



  • 「世界が不完全であることは、信仰にとってプラスになる、と思います。」(橋爪)
  • 「この、Godとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。」(橋爪)
  • 偶像崇拝の禁止というのは、存在の否定が存在の極大値だよ、という感受性に規定されている。」(大澤)
  • 「一神教monotheismは、多神教polytheismと対立してる、とふつう言われる。でも、よく考えてみると、もう少し違ったところに対立軸がある。」(橋爪)
  • 「よく、この科学の時代に奇蹟を信じるなんて、と言う人がいますが、一神教に対する無理解もはなはだしい。(中略)科学を信じるから奇蹟を信じる。これが、一神教的に正しい。」(橋爪)
  • ドーキンスは、自分は無神論者で、キリスト教等のいかなる宗教も信じてはいない、と言います。たしかに、意識のレベルではそうです。しかし、(中略)あのような本を書こうとする態度や情熱は、むしろ宗教的だ、と思わざるをえません。」(大澤)
  • 「総じて言うなら、イエスの奇蹟は、奇蹟としてはささやかなものです。」(橋爪)
  • 「いまの話にちょっと補足していいかな。」(橋爪)
  • (中世の神学者・哲学者について述べた部分)「ぼくがよくわからないのは、そのさいに彼らが神の存在証明に熱中したことです。ふつうに考えれば、彼らにとって神が存在することは証明の対象ではなく、前提ですよね。」(大澤)


ちなみに、本書は三部構成になっている。構成は以下のとおり。

  • 第1部:一神教を理解する 起源としてのユダヤ教
  • 第3部:いかに「西洋」をつくったか


素人の私には面白かったが、本書の内容については批判もあるようで、批判本まで出ています。



まあこういうのを併せて読むことができるという状況を個人的には喜んでしまっていますが、まあ、おふたりもガチガチの宗教学者でも神学者でもないので、いわばマイケル・ジョーダンとペレがモハメッド・アリの偉大さについてブレインストーミングを行ったような趣に近い感覚で本書を噛みしめるというのもひとつの楽しみ方なのではないかと思っております。これは批判でも皮肉でもなく素直にそう思います。なにが素直なのか意味不明ですみません。