『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』
先月で阪神大震災から16年たったというニュースを見た。ということは、同じ年の3月に起きたオウムの地下鉄サリン事件からも、もうすぐ16年の歳月が流れたことになる。
オウムは地下鉄サリン事件の前から教団施設の建設予定地で反対運動が起きたりするなど、社会から「排除」された存在ではあった。また今から振り返れば、サリン事件以外にも数々の凶悪な犯罪を実行しており、排除されるべき根拠がなかったわけではないことになる。
しかし、当時、オウムに「吸い込まれて」いった人々についての断片的な情報に接すると、明確な社会的排除や差別を受けているようには思えない「普通」の人たちだった*1。なぜそうした人々があのような荒唐無稽なものに吸い込まれていくのかという疑問は当時から抱いていた。そういう意味で言うと、実はひとつ前のエントリーでも書いた「自分を溶かす場所への希求」というのも関係しているのではないかと個人的には考えていた。
→http://d.hatena.ne.jp/GuriGura/20110207/1297047949
オウムについて自分なりにもう一度考えてみたいという気持ちもあって『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』を読んだ。この本は地下鉄サリン事件の実行犯のひとりである豊田亨*2の東大時代の同級生であり「親友」でもある伊東乾(現在東大准教授)の手によるノンフィクションだ。第四回開高健ノンフィクション大賞を受賞している。
集英社
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豊田亨は1968年生まれ。大学に入学した年である1986年にオウム真理教の前身であるオウム神仙の会に入会し、大学院博士課程進学直後の1992年に「出家」している。本書にもあるように、裁判における豊田は「寡黙で、極端に言葉が少ない」。彼のこうした態度は「反省の色がなく、まさに人非人」という印象を与える。しかし伊東は、豊田の沈黙に対して異なる見解を示す。彼の沈黙は、無反省ゆえのものではないと主張する。これについては「親友」として豊田の「本当」の姿を描きたいという思いがあったのだろう。
そして、豊田の沈黙によって「東大出身のエリートの転落」というステレオタイプだけが世間に流通し、それが大多数の「一般的な」人々に思考停止をもたらすことを危惧する。例えば、『アンダーグラウンド』などのオウム関連の著作における村上春樹氏の事件に対する姿勢を批判している。村上は著書の中で「あの人たちは、「エリートにもかかわらず」という文脈においてではなく、逆にエリートだからこそ、すっとあっちに行っちゃったんじゃないか」と述べているが、それに対して伊東は次のように反駁する。
p. 147
「みんな『オウムは特殊なヒト』って思いだがるじゃないか。そういう意味では、大半の日本人が『自分は普通』と思いたいとき、〈エリート〉っていう特殊な動物が特殊なオウムに行って地下鉄にサリンを撒いた、ってことで、自分たちは安心していられる安全地帯が見つけられる、免罪符になるんだよ。(略)」
また「特殊な」連中だけに関わる事件とみなすべきでないという著者の主張の背景にはマインド・コントロールに対する強い危機感がある。そして、豊田の「出家」は自発的なものではなくオウムの手による計画的な「拉致」だったのではないか、というところまで踏み込んで主張している。
これはマインド・コントロール下での行為をどう捉えるかという問題でもあろう。この豊田の出家が「拉致」であるかどうかについては、間接的な証拠が提示されているだけであり、真相はよくわからないというのが正直な感想であるし、後でも触れるが本書の後半部分との整合性も取れていないように思われる。ただ、著者がマインド・コントロールに対して抱く危機感は充分に伝わってきた。
オウムは覚醒剤などの薬物も利用して組織的なマインドコントロールを行っている。これはよく知られている。本書では、オウムのマインドコントロールの一端が紹介されているが、それはやはり壮絶なものだ。以下の引用は、教団に疑念を持った信者を糾弾し、恐怖心で縛りつけるためのものだという。長くなってしまうが引用する*3。
p. 89-90
狭くて暗い空間に、蓮華坐を組んで座らされる。その正面にはビデオのモニターが設置されており、修行者はその画面をじっと見続けなければならない。ビデオモニターには、F1ドライバーがクラッシュしてつぶされる瞬間や、スタントマンが墜落死したりする、肉片が飛び散るような残酷な場面ばかりが、映像と音響と、繰り返し繰り返し、えんえんと映し出される。そういうものを5本程度、時間にして6、7時間、立て続けに視聴させるという。(中略)
これに続いて、(中略)目隠しをされたあと、何回も体をぐるぐる回され、左右が判らなくなったあとどこか判らない部屋に連れて行かれる。(中略)部屋の中央で蓮華坐を組まされ3人の司会者が取り囲む。
(中略)大きな太鼓が打ち鳴らされ、ヴァジラベルと呼ばれるベルをチリチリならしながら、目隠しをして座っている信者の周りを歩き回り、恐ろしげな声で「お前は修行がなっていない!」などとささやき、さけび、その信者のマイナス点をこれでもか、と突っついてゆくのだという。
伊東は、こうしたマインドコントロール下での犯罪の再発を防止するために、意識状態や責任能力を評価するための科学的方法の確立にも取り組む(例えば、恐怖下での脳機能の評価など)。また、科学的にマインドコントロールの実態を解明することの重要性とともに、当事者が「証言」することの重要性を説く。
この本のタイトルにある「サイレント・ネイビー」とは、海軍の美意識を示す言葉で、黙って任務を遂行し、失敗しても言い訳をせずに黙って責任を取ることを潔しとするものだ。伊東は、豊田の沈黙は典型的な「サイレント・ネイビー」だと断ずる。そして、その上で、再発防止のために沈黙を打ち破るべきだと訴える。タイトルの『さよなら、サイレント・ネイビー』にはそういう意味が込められている。
以上で見たような、オウムを「特殊な」人間とみなして自分とは無関係だと思い込む姿勢に対する批判、マインドコントロールの恐ろしさ、沈黙に美学を見出す日本人の変わらぬ有り様に対する批判などについては、今後のことを考える上でも重要であると感じた。
ただし、本書を読んで感じた違和感についても記しておきたいと思う。まず、この本では、東大の教育体制や日本の研究組織に対する批判が展開されており、豊田の出家にも東大物理の教育体制への失望が関係しているとまで断じている。例えば、該当部分を引用すると
「大きな夢と希望、それに野心も持って、東大で一番点の高い物理に進んだ。(中略)それなのに、やらせてもらえたのは先行業績のレビューだけ。(中略)でも、仮に1セクションでもいいから、また下手でも失敗作でもいいから、関連の仕事で豊田のオリジナルのモデルの取り組みを指導してやる体制があったら、俺は確信あるよ、豊田はオウムに行かなかった」
ここでの記述を読むと、豊田の出家は、東大の教育システムへの失望が大きく関わっているように書かれているが、先にも触れたように、それより前の箇所では出家はオウムによる拉致であったと主張されている。この部分は矛盾しており、少なくとも充分な説明がなされていないと感じた。開高健ノンフィクション大賞の選評も読んだが不思議なことにこの点についてはどなたも言及していなかった。→http://www.shueisha.co.jp/bungei/metro/
また本書では「創発」「ダブルバインド」「アフォーダンス」などの用語が出てくる。こうした概念や理論の個別の意義は認めないわけではないが、本書での主張においてそうした用語をわざわざ持ち出してくる必然性をわたしは感じなかった。失礼を承知で感じたままを記すと、そうした用語が頻出してくることで、なにか地に足がついていない軽薄な感じがして、やや興ざめだった*4。音声情報と脳認知の関係や、視線と聖性との関係などの考察は読みごたえがあったこともあり、その点は個人的にはやや残念だった。
最後に。著者は不本意かもしれないが、正直なところ私の胸に最も強く響いたのは本書の次の部分だった。
小さな分岐点がポイントを逆に切り替えていたら、二人の立場は逆だったろう。そして、いまもそのまま、小さな分岐点が私たちの社会に根深く残っている。豊田は私で、私は豊田だ。東大に助教授として招聘が決まったとき、豊田のお母さんはYシャツの生地と仕立て券を送ってくださった。
東大時代に実習のペアも組んだ同級生。片や、死刑囚、片や母校の准教授。豊田の時計の針を、事件が起きる前の時点に戻したいと、この母親が何度願ったか。また事件後、執拗な悪意に何度さらされ疎外されたことか。もちろん同情だけでは再発防止にはつながらないが、私たち自身を包摂する社会が、何を排除してしまっているのか、そのことを考えることなく再発防止をなしとげることはできないようにも思う。
地下鉄サリン事件から歳月が流れ、事件についての記憶も薄らぎ、事件を知らない世代も増えている。本書は、サリン事件の加害者である豊田が校正に加わっているという異色の本でもあり、賛否は様々であろうが、オウムとは何であったかを問い直すきっかけとして読んでみていい本だと思う。