「普通に君が好きだ!」「普通に嬉しい!」


「普通においしい」という表現がちょっと前に話題にのぼっていた。毎日新聞の牧太郎さんが書かれた以下のコラム「普通においしい?」が発端になったようだ
 →http://mainichi.jp/select/opinion/maki/news/20110125dde012070062000c.html


わたしは「普通」という言葉から、工業デザイナーの深澤直人さんのことを連想した。深沢さんの著書『デザインの輪郭』の中に「ふつう」と題された章が設けられている。深澤直人さんは「ふつう」であることに異様ともいえる程にこだわっている*1。『デザインの輪郭』にこんな言葉がある。

p. 87

いいふつうがつくれたら本当にすごいと思います。ご飯はふつうのものだから、ふつうのご飯がうまいってことは幸せなことなんです。ふつうのことを、「いいふつう」にするってことが生活レベルが上がるってことなんだけど、変えてしまおうと思っているから間違いなんだ。(中略)ふつうなものを出したときに、デザインをやっていないように見えるんですね。


「アイデンティティの確立」というのが、口喧しく唱えられていた時代があった。自分を主張しないのは、自分を表現しないのは罪だ、それくらいの脅迫的なニュアンスが含まれていたようにも思う。アイデンティティとは「自分らしさ」や「いいふつう」みたいなものであったはずだったが、いつのまにか「他人と違うところ」、既存のものを「変えて」しまったものになっていった。「ふつう」の自分でいたら、それは「アイデンティティ」が確立していないように見えてきた。


社会学者のジグムント・バウマンは自著の中で、ジョック・ヤングの「コミュニティがまさに壊れるときに、アイデンティティが生まれる」という言葉を好んで引く*2。それが正しいのならば、アイデンティティの確立が叫ばれるという事実は、無条件で帰属可能な場が消滅したという事実の裏返しに過ぎないことになる。「あなたは彼・彼女とどこが違って何ができる人なのか」という説明を求められずにいる場所としてのコミュニティの消滅。


「聖地」としてのコミュニティ。消滅してなお、わたしたちはその聖地を求めずにはいられないのかもしれない。宗教はその要求に対するひとつの回答を用意し続けてきたと言えるのかもしれない。『グローバリゼーション 人類五万年のドラマ』にはイスラム教徒のメッカ巡礼について次のような記述がある。


p. 262-3

二〇〇四年には、世界中からおよそ二三〇万人のイスラム教徒がメッカに集まった。肌の色も違えば言葉も違う男女が、みな同じようなステッチのない白の長衣を身にまとい、神の恩寵を得ようと、巨大な行列をなして聖殿の周りを取り囲んだ。そこではあらゆる相違が溶けてなくなった。


現世に厳然と存在する様々な格差が、彼我を分ける差異(差異を生み出すために強引に引かれた線によって「捏造された」差異であるかもしれないが)が、「溶けて」なくなる。無印の自分。「普通」に存在する自分。


以前に『ナチス狩り』という本について書いた。第二次世界大戦の終結直前に、イギリスによってパレスチナから派遣された五千人のユダヤ人の軍隊の話だ。パレスチナからヨーロッパに派遣されたカルミとペレツというユダヤ人の兵隊が、ある教会でエヴァという名のポーランド出身の孤児に出会う。エヴァの両親は強制収容所で殺され、エヴァは修道女に引き取られていた。「ユダヤ人のいるところに行きたい」と訴えるエヴァをカルミとペルツは教会から連れ出す。

修道女たちから少女を救ったものの、二人の兵士は、これから少女をどこに連れていけばいいか見当もつかなかった。(中略)選択肢がつきると、イタリアの国境の向こうのポンテッバの一時収容所に連れていくことに決めた。

(中略)

ポンテッパに行く途中、カルミはエヴァに、暖かな日ざしのなかでメロンやオレンジが育つ土地の農家に住んでいる幼い娘のことを話した。そこは、ユダヤ人でいることが罪でない場所でもあった。少女は、カルミが天国に住んでいるみたいだと言った。


「ユダヤ人でいることが罪でない場所」。「星印」をつけられずに居れる場所。自分が「溶けて」しまう場所。「ふつう」のその場所に少女は理想郷をみる。




しかし、自分を「溶かす」場所をどこにも見出せない人達は、アイデンティティを要求され続ける。そして非正規雇用の増大に象徴される生産者としての地位の不安定化、「液状化」が急速に進んだ現代において、生産者としてアイデンティティを確立する道は多くの人にとって閉ざされてしまっている。その結果われわれは「消費の美学」によってアイデンティティを構築しようと試みる。バウマンが『新しい貧困』などの著作でバウバウと言っているのはおよそそういうことだ。バウバウ。


川島なお美は「私の血はワインが流れている」と語ったという*3川島なお美がワインに傾ける情熱はなにに由来するのだろうか? バウマンやジョック・ヤングならば「それはお笑いマンガ道場というコミュニティが崩壊したからだ」と答えるだろう*4。「川島なお美がワインに傾倒したからお笑いマンガ道場を抜け出したわけではない。その逆だ」と。


消費の美学の世界。そこでは例えばワインを飲んで「ああこれ好き」とか「嗚呼これは美味しい」という「ふつう」の感想だけ述べるわけにはいかない。「骨格がある」だの「フィニッシュが長い」だの「濡れた犬の毛の匂い」だのと表現しなければならない。川島なお美化する現代社会。


もちろんワインに限らない。生活全般が美学に支配される。審美眼のある私。他人よりも美しいものを選べる私。その美しさを饒舌に語ることできる私。審美眼を高めるトレーニングが始まった。最も簡単なのは他人がまだ知らない商品を他人よりも早く「発見」することだった。「いいふつう」を見出すわけではなく。


専門誌を読み、単館上映の映画を観て、人の行かない国へ旅して、知る人ぞ知る店で数の出ない希少な食材を堪能して。美の求道者。ストイックなアスリート。エッジの効いた選択が好まれる。皆が選ぶものが忌避される。モノが大量に売れない。紅白歌合戦の視聴率が下がりつづける。レディメイドからオーダーメイドへ。私だけの一品。



でも、もう疲れたよパトラッシュ・・・。「普通においしい」でいいじゃない。



先のコラム執筆者の同僚は「今の若者は、もの心ついてから不況の連続。自分のことを“普通以下”と考えている。だから彼らが言う“普通”とはワンランク上の事なんですよ」と解説している*5。 そして牧さんは、「日本語は変わったのか?」という一文でコラムを終わっている。


だがそれは言葉の意味が変化しているというだけなのだろうか。「表現」が拒否されているのだ。審美眼を試される「表現」が。そして「いいふつう」の価値が見直されているのではないだろうか。ただただ「ふつう」でいたい。ゴテゴテと積み重なった張りぼてで自己主張するのではなく、「いいふつう」の世界で「溶けて」いたい。


深沢直人さんは『デザインの輪郭』の中で次のようにも語る。

人間には、ふつうというところから抜け出したいという願望と、もとに戻りたいっていう願望と、両方があると思います。


だが、受け皿となるコミュニティが再生しているわけではもちろんない。完全に「もとに戻る」場所は存在しない。隣にいるはずの車だん吉は、もはやそこにはいない。「ふつうでありたい/ふつうなんかやだ」この狭間で揺れながら生きていく。


その当たり前の事実の中で、今、行き過ぎた消費の美学の反動もあって、「普通」であることの価値が上がっているということなのではないだろうか。





「今の若者は、もの心ついてから不況の連続。自分のことを“普通以下”と考えている。だから彼らが言う“普通”とはワンランク上の事なんですよ」という解説に対する猛烈な違和感から、こんなことを妄想しているうちにラーメンの麺がのびた。普通に不味い。



という大喜利がしたくて書いてみますた。





*1:『デザインの輪郭』には、それ以外にも、「最小限で生きる」「アノニマス」「あたりまえの価値」「意図を消す」「ゆで卵」「デザインは好きで、デザイン活動はきらい」「単純に生きる」といった章があり、これらも「ふつう」であることとかかわっているように思える。

*2:原文は「Just as community collapses, identity is invented’15. ‘Identity’ owes the attention it attracts and the passions it begets to being a surrogate of community」だから、アイデンティティが「発明された」という感じか。Jock Young, The exclusive society, 1999

*3:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E3%81%AA%E3%81%8A%E7%BE%8E

*4:答えないよ

*5:壮絶な解釈!