『かいじゅうたちのいるところ』の「かいじゅう」の正体について

今日はモーリス・センダックの生誕85周年だそうですね。親しい友人のグーグルさんが教えてくれました。いつもありがとう。


さて、せっかく生誕85周年ということなので、センダックの代表作のひとつ『かいじゅうたちのいるところ』(これはケネディ暗殺の年に世に出た)について小ネタをば紹介したいと思います。




絵本の世界で最も頻繁に耳にする問いのひとつが「『かいじゅうたちのいるところ』の「かいじゅうたち」というのはいったい何者なのか?」というものだと言われています。言われてませんか。そうですか。個人的には「赤い服の野ねずみと青い服の野ねずみと、どっちがぐりでどっちがぐらだっけ?」と双璧をなす重要な問いであると考えています。考えなくていいですか。そうですか。



でも実はこの「かいじゅうたち」の正体については、センダックさんご本人の口から割りとあっさり語られています。ここでその答えを示そうと思いますので、ああそんなの知らないままでいたいという人はここからは読まないで下さいね。



岩波書店から出ている『センダックの絵本論』所収のエッセー「ざっくばらんな話」がそのソースです。




このエッセーの中で、どこからあんな「かいじゅう」がやってきたのかが語られています。「かいじゅう」たちは突然出現したらしいのですが、センダックも驚いたことに、それが彼のよく知っている人たちだったというのです。

それは多分、ブルックリンでしばしばくり返されたあのぞっとする日曜日の記憶-だれ一人として特に好きではなかった伯母や伯父たちが来るというので、姉も兄も私も正装しなくてはならなかったあの日曜日の記憶から出てきたのだと思います。
(中略)
もし母の料理のできるのが遅すぎたら、彼らがひどくお腹をすかし、私の上にのしかかるようにして頬っぺをつねり、「ほんとにおいしそうだね。食べてしまいたいくらいだよ」と言うのではないかと、私はいつも心配していました。(中略)ですから結局、「かいじゅうたち」はあの伯母や伯父たちであったようです。彼らの眠りが安らかなものでありますように。


伯父様、伯母様、お気の毒。



この「ざっくばらんな話」というエッセーはその名の通りざっくばらんに語られているんですけど、「子どものとき私を怖がらせ、多分その脅かしによって私を芸術家にした怪物たち」というのが一応のテーマになっていて、センダックさんが子ども時代に恐ろしいと思っていたものが具体的に紹介されていて凄く面白いです。例えばそれは、両親、姉、リンドバーグ誘拐事件、学校、そして電気掃除機(!)だったりします。センダックのこれまた代表作のひとつに『まどのそとのそのまたむこう』がありますが、実はあの作品が「私をリンドバーグ事件から解放してくれました」とセンダック自身が語っていてあまりの意外さに驚いてしまいました。



ここで紹介した「ざっくばらんな話」というエッセーは、わずか10頁程度の短いものなんですが、私自身は大好きで幾度となく読み返しています。特に結びの部分がなんか好きで何度読んでもじ~んときてしまいます。

私は子どもの読者を想定して書いているわけではないのですが、最高の読者は子どもだということに、もうずいぶん前から気づいています。(中略)彼らは専門的な批評家より率直で、要点を見事についています。(中略)子どもが本を好きになってくれたとき、その批評は「あなたの本、だいすきです。ありがとう。大きくなったら、あなたとけっこんしたいです」といった具合です。でなければ、こうです。「しんあいなるセンダックさん。ぼくはあなたの本がきらいです。さっさと死んじまえ。かしこ。」


じ~んとくる内容でもない気がするんですがなんかよく分からないけどじ~んときます。


この「ざっくばらんな話」が収められている『センダックの絵本論』ですが、「絵本論」と謳っているように、センダックによるコールデコット論、ウインザー・マッケイ論、アンデルセン論、ビアトリクス・ポター論、ディズニー論などなどが収められていて最高に面白いです。ちなみに、センダックとミッキーマウスは同級生(1928年生)という「間柄」で、ミッキーマウスとの「友情」(と彼のその後の「堕落」に対する批判)について語るくだりなんかもセンダックならではですごく味わい深いのでまた改めて紹介するかもしれません。取り敢えず今日はこんな感じで。


アメリカという国が大嫌いという人も、センダックという人物を生み出してくれたという点だけは少なくとも恩義を感じなければならないのではないかと思う生誕85周年の今日なのでした。

大学とかのデジタル・アーカイブがオモロおますな

「八重の桜」を観てたらカール・レーマンという武器商人が出てきました。レーマンという人はドイツの武器商人で、「八重の桜」では八重の兄の覚馬が長崎でレーマンに銃を発注する場面が出てきます。


どんな人だったんだろうとチョコチョコ調べてみました。そうしたら長崎大学附属図書館の電子化コレクションの「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に行き着きました。

幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース


下のリンク先の写真で、家の二階の欄干で座っている人がどうもレーマンさんらしいです。

飽の浦の外国人宿舎(1)(幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース)


へえこんなのあるんだとすごく感動してしまったんですが、こういう時代なのでデジタル・アーカイブ的なものは各所で充実してきているんだろうなあと想像したわけです。例えば人文研あの世界的にも知らない人はいないと言っても言い過ぎではないほど知名度が超高い国際日本文化研究センターによる「怪異・妖怪伝承データベース 」とかは凄く話題になりましたし、「国立国会図書館デジタル化資料」や「東京大学史料編纂所」とかも有名でしょうか。「東京国立博物館」とか「奈良文化財研究所のデータベース」とかもチラチラ話題になっている気がします。


でもその一方で、先ほどの長崎大のコレクションとかは、実際見てみるとすごく面白いんですけど、わたしは今までその存在を知りませんでした。このように、実はすごく面白くてためになるのに、意外に知られていないデジタル・アーカイブがたくさんあるような気がしたので、今回は私が知っている範囲で勝手に紹介してみようと思います。



まずレーマンの写真を公開してくれていたということで長崎大学から。
長崎大学電子化コレクション


先ほどの「日本西部及び南部魚類図譜(グラバー図譜)」も面白いのですが、それ以外にも「日本西部及び南部魚類図譜(グラバー図譜)」や「ガラパゴス諸島画像データベース」なども楽しめます。


グラバー図譜というのは「明治末から昭和初期までの約25年の間に、倉場富三郎により編纂された長崎近海の魚類図鑑」です。長崎の港に水揚げされた600種の魚を地元の画家に肉筆写生させたものだそうです。これは検索も充実していてすごく楽しめます。倉場富三郎さんというのはあのグラバーさんの息子さんですね(ちなみに倉場富三郎さんさんは終戦直後に長崎で自殺されていますね)。



それから「ガラパゴス諸島画像データベース」は、長崎大学名誉教授伊藤秀三先生が撮影した「ガラパゴス諸島写真コレクション約1300枚」が公開されています。このコレクションでは、動植物の写真が多数公開されているのですが、それだけではなくて「Bird View Images」というのもあって、これはCGによる3Dムービー画像なんですが、その名の通り鳥の気持ちになってガラパゴスの地形を眺めることができます。なかなか力が入っている感じです。



次は名古屋大学だぎゃー。

http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/db/e_collect/
ここは「伊藤圭介文庫」が素晴らしい。伊藤圭介はシーボルト門下で、日本最初の理学博士(だったはず)。ということで植物の図譜が充実しているのは当然だが、ここの解説によると医学にも功績があったらしく医学関係の資料もあります。




続いては世界一感じの良い学長がいることで有名な放送大学

http://lib.ouj.ac.jp/gallery/virtual/index.html
ここで面白いのは「ちりめん本」のコレクション。ちりめん本というのは「明治時代に生まれた絵本で、和紙を使用し、木版多色刷りで挿絵を入れ、外国語に翻訳された文章を活版で印刷し、加工を施すことによって縮緬(ちりめん)布のような風合を持たせた、欧文和装本とも呼べる絵入り本」。ここのコレクションでは英語版桃太郎とかページをめくるような感覚で読むことができる。なぜ放送大学にこんなコレクションがあるのか?という根本的な疑問をすっかり忘れてしまいそうな出来だ。あとは鉄板の「西欧古版日本地図」とか。




京都どす。

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/
ここが一番好きかも。見せ方も工夫しているように思う。トップ画面が「みる」と「さがす」に分けられていて「さがす」という方に進むといわゆるデータベースの検索場面になって、「みる」という方に行くとコレクションが並んでいる画面に行けてその一覧の中から面白そうなのを探すことができる(説明分かりにくいな)。これは我々下々のものにも配慮されている感じがして好感が持てる。
 「博物学の時代」とか超楽しいし、「挿絵とあらすじで楽しむお伽草子」はあらすじまで付けてくれていて子どもでも読めるようになっていてこれまた楽しい。「太平洋戦争期のタイ新聞コレクション」とか、なんで日本人がこんなの公開してんだって思うかもしれないけど流石だと思った。




福岡ばい。

  • 福岡大学図書館

http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/


ここは今回調べててはじめて知ったけど、なんとウィリアム・モリスのケルムスコット・プレス関係の書籍が画像化されている。福大にこんなコレクションがあるとは知らなかった。なんで言ってくれなかったんだ!
 モリスについてはこのブログでも少し取り上げたことがあるので良かったらどうぞ→『もしもウィリアム・モリスが電子書籍時代に生きていたら




お江戸でぇい。

http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/koho/guide/coll/
まあ当然かもしれませんがこちらも幅広く所蔵しています。色いろある中であえておすすめするのは「小野秀雄コレクション」。これは江戸から明治にかけての新聞錦絵を収集したもの。今でいうタブロイド紙みたいな感じのゲスさが素晴らしい。文字部分はテキストに起こしてあるので内容も理解できる。
 それから『教育用掛図』というのが楽しかった。掛図とは「教育に必要な視覚教材(人体・動植物・実験機器などの絵、 歴史教育用の地図、語学教育のための絵など)を掛け軸にしたもので、 戦前期には日本中で広く使われていた。駒場に保管されているのは 第一高等学校旧蔵の掛図である」とのこと。



もいちど九州たい。

  • 九州大学デジタルアーカイブ

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/
ここも充実していて見飽きない。サイト自体の見栄えがいい。よく分からんけどお金かかってる感じ。内容としては「筑前国産物絵図帳」とか「蒙古襲来絵詞」とか「クルーゼンシュテルン『世界周航誌』」とかもう楽しい楽しい。



そして神戸。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/da/
神戸大の「震災文庫」は有名なのでご存じの方も多いかと思いますが、震災に関係する画像、動画、図書、音声などが多数公開されています。それから「新聞記事文庫」というのもあって、これは明治末から昭和45年までの新聞切抜資料です。マイクロフィルムから記事画像を作成して公開しているそうなんですが、なんと「記事全文をテキストデータとしてデータベースに搭載することをめざしています」ということで、実際みてみるとテキスト化されているので簡単に読むことができます。


大阪でおま。

http://www.library.osaka-u.ac.jp/others/tutorial/mod3/mod3_009.html
『西洋古版アジア地図』は、「西洋で発行されたアジア、特に東アジア・北アジアの地図約100点」を含むコレクション(発行年代は1570年代から1870年代まで300年にわたっている)。18世紀中頃に描かれた「日本男女の図」など見て引っくり返って欲しい。あと洋画家の須田国太郎さんによる能と狂言のデッサン集も味わい深い。



ガバイ佐賀やばい。

http://www.dl.saga-u.ac.jp/OgiNabesima/index.php
『小城鍋島文庫』や『市場直次郎コレクション』がある。『小城鍋島文庫』は「小城鍋島藩の藩主の家に、代々伝えられた和漢の古典籍および歴史史料を中心とした、総数約一万点におよぶコレクション」らしい。「葉隠」の写本などがある。『市場直次郎コレクション』は「故市場直次郎氏が蒐集した、近世後半から明治時代にかけての小説(草紙)類などの和書と文人の書画」。



まだまだあります。

  • 東邦大学メディアネットセンター - 額田文庫デジタルコレクション -

http://www.mnc.toho-u.ac.jp/open_doc/archive/nukada-bunko.html
『額田文庫』は「備前岡山の医家額田家四代に亘る累代の蔵書で、おもに17世紀から19世紀にかけて出版された和装本43種類275冊からなる医学書のコレクション」だそうです。なんでこんなものが東邦大学にあるのだろうと思ってしまいましたが、なんのことはない東邦大の創始者が額田家出身の額田豊さんなのですね。そう言えば東邦大学はたしか梅ちゃん先生の舞台にもなったんでしたね。


  • 筑波大学附属図書館 電子化資料(貴重書コレクション等)

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/portal/rare.php
グーテンベルク42行聖書零葉』とかちょっと感激する。明治時代に作られた『文部省発行教育錦絵』とかも面白い。


http://www.jaist.ac.jp/library/outline/digital/
ユークリッドとかガリレオ・ガリレイとかニュートンとかの本をデジタル化している。



  • 城西大学 水田記念図書館|図書館資料案内|コレクション

http://libopac.josai.ac.jp/search/collection.htm
漢方古書のコレクション。これには解体新書や養生訓なども含まれる。薬の広告などもあって楽しい。


http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/meta_pub/G9200001CROSS
漱石自筆資料など


http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/da/community-list
「井藤半彌旧蔵ドイツ紙幣等コレクション」では、世界大戦戦間期ドイツの超インフレ期に発行されたライヒスバンク紙幣とかを見ることができる。


  • 佛教大学図書館デジタルコレクション

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/collections/
仏教関係が多いのかとおもいきやそうでもない。『大江山奇譚』(『酒呑童子』)とかすごく綺麗に見ることができる。


http://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/digital-collection/index2.html
教育大だけあってここも『歴史科教授用参考掛図』が置いてある。あとは大阪関係の古地図とか。



きっとまだまだあるんでしょう。ご存知でしたら是非教えて下さい(←ライフハック記事風の締め。一回やってみたかった)

思想界の四次元殺法コンビ「橋爪大三郎&大澤真幸」に萌える一冊


『ふしぎなキリスト教』という本を読んだ。



われらが橋爪大三郎先生と大澤真幸先生との対談である。くどくど説明の必要はないのでしょうが、橋爪大三郎先生は、一般には、故橋本龍太郎元首相の弟と間違えられてしまう傾向が未だにあるものの、大変アクティブな社会学者としてご活躍である。一方の大澤先生も、『戦後の思想空間』を挙げるまでもなくアクロバチックな論理展開で読者を置いてけぼりに魅了するというだけでなく、実は意外に「マサチ可愛い」などと言う女性ファンも多いという噂もあり、本邦思想界のエースと言っても過言ではない存在である。よく知らないけれども。とにかく良くも悪くも、どんな内容でも面白くしてしまうという悪癖があるおふたりのかけあいですので読んでて飽きません。



例えば冒頭。大澤先生が、ユダヤ教とキリスト教がどう違うのか、と橋爪先生に問いかけるのだが、それに対する橋爪先生の答えはこうだ。

議論のはじめなので、ユダヤ教についても、キリスト教についてもよくわからないという前提で、ふたつの宗教の関係を端的にのべてみましょう。
 では、その答え。
 ほとんど同じ、です。

豪胆である。もちろんここから補足があってそこには一定の説得力があるのだが、それよりもなによりも賞賛されるべきはその豪胆さである。全盛時のみのもんた(おもいっきりテレビ時代)の切れ味を完全に凌駕している。大澤先生の苦笑いがまざまざと思い浮かぶではないか。



それから、一神教における「神」という存在と、我々日本人が考える「神」との違いに触れた部分がこれまたイカしている。なお、本書では一神教の神の特異性を強調するために一神教の神を「God」と表記している。

Godは、人間と、血のつながりがない。全知全能で絶対的な存在。これって、エイリアンみたいだと思う。(中略)Godは地球もつくったぐらいだから、地球外生命体でしょ?
 結論は、Godは怖い、です。怒られて、滅ぼされてしまっても当然なんです。

「でしょ?」じゃないだろ。 さらに、それに対する大澤先生の対応を以下に示そう。

橋爪さんらしい明快で、ユーモアのあふれる説明ですね。

NHKの解説委員か! ちなみに、ここだけ切り取ると「大ちゃんの強引ながぶり寄りにタジタジとなるマサチ」という構図を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれないが、それは完全な誤解だ。この直後に、大澤先生は、なぜか昔読んだという丸山真男の宇宙起源論を突然思い出して披露するという荒技で一気に土俵中央まで盛り返している。次元を超えた空中殺法の応酬である。ここでのやり取りは本書のひとつのヤマ場であるから是非直接確認していただきたい。




さらにいくつか見てみよう。大澤先生がクリスチャンがよく口にする「アーメン」という言葉の意味を訊ねる場面がある。橋爪先生は次のように答えている。

「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「〜するゾー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。

豪胆である。キリスト教を新左翼に例えるという禁じ手を繰り出してくるあたりがさすがである。


次は、キリスト教における愛と律法の関係について議論するなかで、ヤハウェがアブラハムを選び出して呼びかけたという聖書の記述について話題が及んだ箇所での橋爪先生のご発言。

じゃあ、なんで呼びかけたのか。ちなみに、見ず知らずの誰かに声をかけて「ついておいで」と言うのを、ナンパという。神が、そういう行為をした。それは、仲よくしたいということでしょ、簡単に言えば。

簡単に言うな!



大澤 いずれにせよ、キリストの贖罪の論理というのは、なかなか難しい。・・・・ちょっとピンとこないところもある。ピンとこないというのは、あえて言うと、神様というのはなかなかユニークな性格の方ですね、ということなんですが(笑)。

あんたもや!



橋爪 この解釈なんですけど、神はなぜアベルの捧げものを喜び、カインの捧げものを喜ばなかったのか、書いてないんです。ここは読みようによってはたいへん理不尽に思える。ここは違和感なかったですか?


大澤 大いにありますよ。ただ『創世記』の特に最初のほうは、おかしなことが次々に起こるので(笑)、がまんして読めるんですよ。

ここはワロタwww




大澤 キリスト教というのは、ボールが存在しているはずのない真空の場所で思いっきり素振りしたら、どういうわけか真空の中から飛び出してきたボールに当たって、そのままスタンドインのホームランになってしまった、というような仕方で影響を残していると思うことがあります。

どういう仕方や!
聖書に影響されたのか、喩えの方が難しくなっている。






以上みたように、読み物として非常に面白いのだが、もちろん内容的にも初心者の私には面白かった。以下、アフォリズム風に、気になった表現を説明なしに羅列していく。気になる箇所があれば本書に直接あたっていただきたい。



  • 「世界が不完全であることは、信仰にとってプラスになる、と思います。」(橋爪)
  • 「この、Godとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。」(橋爪)
  • 偶像崇拝の禁止というのは、存在の否定が存在の極大値だよ、という感受性に規定されている。」(大澤)
  • 「一神教monotheismは、多神教polytheismと対立してる、とふつう言われる。でも、よく考えてみると、もう少し違ったところに対立軸がある。」(橋爪)
  • 「よく、この科学の時代に奇蹟を信じるなんて、と言う人がいますが、一神教に対する無理解もはなはだしい。(中略)科学を信じるから奇蹟を信じる。これが、一神教的に正しい。」(橋爪)
  • ドーキンスは、自分は無神論者で、キリスト教等のいかなる宗教も信じてはいない、と言います。たしかに、意識のレベルではそうです。しかし、(中略)あのような本を書こうとする態度や情熱は、むしろ宗教的だ、と思わざるをえません。」(大澤)
  • 「総じて言うなら、イエスの奇蹟は、奇蹟としてはささやかなものです。」(橋爪)
  • 「いまの話にちょっと補足していいかな。」(橋爪)
  • (中世の神学者・哲学者について述べた部分)「ぼくがよくわからないのは、そのさいに彼らが神の存在証明に熱中したことです。ふつうに考えれば、彼らにとって神が存在することは証明の対象ではなく、前提ですよね。」(大澤)


ちなみに、本書は三部構成になっている。構成は以下のとおり。

  • 第1部:一神教を理解する 起源としてのユダヤ教
  • 第3部:いかに「西洋」をつくったか


素人の私には面白かったが、本書の内容については批判もあるようで、批判本まで出ています。



まあこういうのを併せて読むことができるという状況を個人的には喜んでしまっていますが、まあ、おふたりもガチガチの宗教学者でも神学者でもないので、いわばマイケル・ジョーダンとペレがモハメッド・アリの偉大さについてブレインストーミングを行ったような趣に近い感覚で本書を噛みしめるというのもひとつの楽しみ方なのではないかと思っております。これは批判でも皮肉でもなく素直にそう思います。なにが素直なのか意味不明ですみません。

セックス、睡眠、飲み食い、夢の秘密を盛り込んだ贅沢な科学本

『からだの一日 あなたの24時間を医学・科学で輪切りにする』を読んだ。



最近、NEATという言葉をよく耳にしませんか。NEETじゃなくてNEAT。NEATは Non-Exercise-Activity-thermogenesis の略で、日本語だと非運動性活動熱発生とか言ったりするようです。要するにジョギングやウォーキングなどのエクセサイズ以外の活動によるエネルギー消費量のことです。「そわそわした身ぶり、姿勢を変える仕草、立っていること、歩くこと、指やつま先で机や床を叩く」などが含まれるわけです。


それで、最近なんでNEAT、NEATとやかましいかというと、一日の消費エネルギーの総量に占めるNEATの寄与がうわっと驚くくらい多いぞということが分かってきたからなんですね。例えば、タニタのサイト内で紹介されていた日本人を対象にした研究(アスリートじゃない一般の人が対象)ではその割合が 25-30%となっていました。もちろん、どんな人が研究対象になったかとか色々な留保がつくわけですが、とにかくNEATが馬鹿にならない量になるんじゃないかというのが最近の考え方のようです。


ダイエットをするときには、普通はジョギングやウォーキングなどの「エクセサイズ量」ばかりに目がいくわけですけれども、先に触れたようにこのNEATも馬鹿にならんぞということで万歩計ではなくてNEATにも対応した活動量計というのが注目されているわけですね。





ちなみに、上に貼った活動量計だと、NEATも測定して数値化する。そして、ウェルネスリンクというオムロンが提供するシステムと連動させれば、「活動で消費したカロリーが記録でき、あとで内容を分析することも可能」だそうです。凄いですね。



さて脱線しましたが、話を『からだの一日 あなたの24時間を医学・科学で輪切りにする』に戻します。実は本書でもこのNEATについて言及しています。第5章「ランチのあと」によると、過食の際に生じるNEATには個人差があるという。これはようは食べ過ぎちゃった後にそわそわ動き回ること火の如しの人もいれば、じーっとしちゃって動かざること山の如しな人もいるということなんですが、驚くなかれ驚くなかれ、この過食後の「落ち着きのなさ」についてある研究者は次のように考えているというのだ。

食べ過ぎたときに生ずるNEATは人によって異なる。たくさん食べてもそわそわと動きまわって、ほとんど安定した体重を維持した人もいれば、あまり動きまわることなく、最大で四キログラムまで太った人もいた。研究者たちによれば、この一人ひとりが生まれながらにもつ落ち着きのなさは、おそらく遺伝的に決められた脳内化学物質のレベルによって制御されており、これがその人のカロリー消費の一五〜五〇パーセントを占めるかもしれないという。


素直でない私がこれを素直に読むと、過食に反応して出てくる脳内化学物質があって、その出方は人によって違っていて、しかもそれは遺伝的な違いを反映している可能性があるということなんでしょうか。生まれつきNEATに見放された人がいるということか。にわかには信じがたい説であるが、これを読んでから食後の人の動きを観察するのが楽しくて仕方がない。実はNEATについては、第12章「眠り」でも言及されている。第12章では睡眠不足の人ほど太りやすいという興味深い研究結果が紹介されているのだが、これにNEATが関係しているというのだ。興味のある方は是非本書に直接あたっていただきたい。




もちろん本書はNEATのことだけを扱っているわけではない。日本語版のタイトルは『からだの一日』というお行儀の良いものだが、原題は『SEX SLEEP EAT DRINK DREAM』となっており、原著者は次のように解説している。

本書では、私自身の関心事と、読者の方々にも興味深いであろうと思われる話題に絞った。キスや抱擁からオーガニズム、マルチタスキングから記憶、トレーニングからストレス、午後の眠りから夜寝ているあいだに見る夢までを収めてある。


例えば、「あくび」について。私は酸素不足に反応性に出るという説を信じていたが、どうもこれは違うらしいという説が紹介されている。そして「あくび=社会的な信号説」が紹介されていて、あくびは伝染するかという問題を探求した実験も紹介されていて面白い。


その他ざっと挙げていきますが、本書を読むだけで次のようなことが分かりますぜ。

  • 一日のうちで心臓発作が最も起きやすい時間帯は? またそれはなぜか?
  • 一日のうちで歯の痛みを最も感じにくい時間帯は?(何時に歯医者を予約すべきか分かる!)
  • 香りが昔の記憶を呼び起こすのはなぜか?
  • 早起きすると金持ちになれるか?
  • ウディ・アレン遺伝子」というあだ名の遺伝子があるというが、これはどういう遺伝子か?
  • 新しい恋を見つけた人と長期の恋愛関係にある人の脳活動の違いとは?
  • スポーツの新記録が出やすい時間帯はいつか?(ただし、すべての運動がこの時間帯に適しているというわけではないらしく、ここがまた面白い)
  • アーミッシュの人たちはカロリーの高い食品もたくさん食べるが肥満率が著しく低いという(アメリカ国内での比較だけど)。それはなぜか?
  • ヘロイン中毒患者の性欲が低いのはなぜか?
  • 黄体化ホルモンの血中レベルは排卵が近づくと上昇するが、女性に男性のある部分の匂いを嗅がせると次のホルモンピークがやってくるのが早まったという。どこの匂いだろうか?
  • 精子の質は一日のうちでどの時間帯でピークを迎えるか? またテストステロンレベルはどうだろう? (ちなみにどちらも就寝時間帯とはずれている!)
  • ある研究者によると力いっぱい鼻をかむのは鼻をかまないよりも悪いという。それはなぜか?
  • 医学の分野にクロノセラピー(時間療法)というものがあるらしいが、これはいったいどういう療法か?
  • 睡眠時に悪夢を見る頻度には男女差があると主張する研究者がいる。どちらが悪夢を見やすいか?
  • 鬱血性心不全胃潰瘍、乳幼児の突然死症候群、骨破壊、片頭痛、喘息発作がピークを見せる時間帯とは?


もちろん、「定説」とまでは至ってない説も含まれるが、紹介されている研究のほとんどに出典がついているので気になる人は内容を確認することも可能だ。人間の不思議と自分の身体の不思議を改めて思い知ることができる一冊だと思う。

「こころ」はどこで育つのか

『「こころ」はどこで育つのか 発達障害を考える』を読んだ。



本書は、批評誌『飢餓陣営』主宰の佐藤幹夫さんによる精神科医の滝川一廣さんへのインタビュー集の第三弾。第一弾が『「こころ」はどこで壊れるか』、第二弾が『「こころ」はだれが壊すのか』、そして第三弾が今回紹介する『「こころ」はどこで育つのか 発達障害を考える』である。


滝川一廣さんは本書の意図を「まえがき」で次のように述べている

一つは社会という空間的なつながりのなかで、もう一つは発達の道筋という時間的なつながりのなかで、「発達障害」をはじめ、子どもたちの「こころ」が育まれてゆく姿をとらえることを試みた。


加えて、発達と性の問題を取り上げているのが本書のもう一つの特徴だろう。これは第四章で中心的に論じられている。個人的にはこの章が最もショッキングだったので先にこの章に触れようと思う。この章ではいくつかの「事件」が取り上げられている。


ひとつは「浅草事件」と呼ばれるもので2001年浅草の路上で女子短大生が刺殺された事件である。犯人がレッサーパンダのぬいぐるみの帽子を被っていたことなどもあり当時非常に話題になった。犯人に発達の遅れが認められたため(本書では自閉症とされている)、責任能力を巡って弁護側と検察が対立したが、最終的に無期懲役の判決が下された。本書によると、この事件では「性」という問題が重要な論点のひとつになっていたというが、ご存知だっただろうか。まず、検察側は動機を「強制わいせつが目的」だったと主張したが、本人は最後までそれを否認している。この動機をめぐる攻防の過程で、自閉症の人の性を巡って議論になったという(例えば、自閉症の人は、性交したいというような生々しい性欲を持つのかなど)。これらについては、本書に詳しく書かれているし、自閉症の人の性について滝川さんによる解説もある。


もう一つは「寝屋川事件」と呼ばれるもので、2005年に起きている。当時17歳の少年が自分が卒業した小学校に元担任を訪ねて来校し、対応に出た初対面の男性教師を背後から包丁で刺すという、これもショッキングな殺人事件であった。少年は逮捕後に精神鑑定を受け、広汎性発達障害と診断される、最終的に懲役15年の判決が下される。本書によると、この事件でも「性」の問題が出てくるという。この少年はある女性に恋心を抱き何度か交際を申し込むのだが交際を断られている。この恋をあきらめるという意味だったのか、少年はこの女性のメールアドレスや写真を自分のパソコンから削除する。これが事件の二日前の二月十二日。事件はバレンタインデーの日に起きている。


念のために言っておくと、著者らは、失恋で自暴自棄になったことが直接的な原因となったというような単純な解釈をしているわけではない。この事件についてのお二人の著者の解釈の当否を言い当てることは私などにはできないが、ぐっと考えさせられる内容になっているので是非直接本書に当たってみていただきたい。とにかく、二つの事件ともに、ちょっとした巡り合わせがあれば、二人の犠牲を止めることができたのではないかと思うと非常に切なくてならない。


長くなってしまうが、この章では、東京都日野市の養護学校での性教育をめぐって裁判にまで発展した「‪七生養護学校事件‬」も取り上げられている(本書では「七尾」と表記されているが誤植と思われる)。これも当時は非常に話題になったので覚えておられる方も多いのではないだろうか。都立七生養護学校で行われいた性教育に対して一部の都議会議員が不適切であると断じて抗議をして、教育委員会が校長を降格させるなどした事件である(元校長は処分の不当性を主張し裁判となり処分取り消しの判決が確定している。また、元教員および生徒の保護者は、都教委・都議3名・産経新聞社に対して精神的苦痛を受けたとして訴訟をおこし、都議三名と都教育委員会に210万円の支払いを命じる判決が下されている)。この事件についてはネットでもたくさんの情報が載せられているので、本書とあわせて参照していただきたいが、個人的には本書の中での滝川さんの次のような指摘にはっとさせられるような思いだった。

七尾福祉園は定員三○◯人規模の大変に大きな入所施設で、そのうちの約一五〇名、入所者の半数が子どもでした。一五〇名もの発達障害をもつ子どもたちが、家庭ではなく、郊外におかれた大規模な施設で集団生活をしている。これはいったいどういうことか。なぜこのような状況が東京都で生み出されているのか。都の議員なら、まずそこを追求しなければなならないのに。


第四章ではこうしたトピックについてその背景が簡潔に解説されていると同時に、章の後半は滝川さんによるフロイトの発達論のミニ講義のようになっていて非常に勉強になる。



順不同になるが、第三章では、アンナ・フロイト、ハーロウ、ボウルヴィらの研究の紹介も含めて、こどもと養育者との関係がこどもの精神形成に及ぼす影響について簡潔にまとめられていて、この章も非常に勉強になった(というか、もっと勉強してみたくなった)。またこの第三章では、こどもの精神発達の阻害要因としてチャイルド・アビューズ(虐待)の影響について触れられている。虐待との絡みで、「しつけ」が子どもの精神形成に及ぼす影響が述べられていて非常に面白かった。詳細は本書に譲るが、結論だけ言うと、しつけは子どもが「意志」の力を培うのに不可欠であり、その意味で単に社会規範を知るということに留まらず、精神発達上も極めて重要であるというのが滝川さんの主張である。しつけを名目にしたアビューズについて報道等で耳にすることが増えた気がするが、本書での議論でしつけとアビューズの本質的な違いを理解することができる。キーワードだけ抜き出すとすれば「能動性vs受動性」あるいは「自律vs他律」であろうか。親としては育児の際の指針にもなる。


新書のボリュームでなおかつインタビュー形式であるので一気に読める。その本を読むとさらに知りたいという意欲が湧いてくる本を良書とするならば、この本は間違いなく良書であると思う。


明治天皇、カフェオレ、麩饅頭

明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在 』(新潮新書)を読んだ。




まえがきで、次のように本書の概要が説明されている。

本書では、明治宮廷での、天皇、女官、侍従たちの何気ない一日の生活ぶりをじっくりと見てゆくことにします。(中略)戦争など非常時ではなく、むしろ、平凡な普段の生活の中にこそ、変えがたい宮廷のシステムの謎が潜んでいるはずです。特に「奥」と呼ばれる、女官たちが仕えるプライベートスペースでの過ごし方は、いろいろな面で重要です。日常の些細な物事の中に、皮膚感覚のそれゆえに変えがたい、宮廷問題の核心があるはずだと思うのです。


こうして、明治宮廷の一日が再現されていく。基本的に側近の回想録などに基づいている。新しく出てきた資料とかに基づいているわけではないので、皇室フリークの方々にとっては目新しい内容ではないのかもしれない。だが、私の場合で言うと、明治天皇については、富国強兵という時代背景とのセットで、妄想の翼をはためかせるだけだったので、勝手に厳格でカクカクシャキシャキされているのかと想像していた。しかし、本書で明治天皇のパーソナリティーに触れた部分を読んでみて、随分とイメージが違っていて驚いた。




ということで、おもむろに表題の件に話題を移しますが、明治天皇がカフェオレとパンを食べていたという話はたぶん割と有名で、私も中学か高校の歴史の授業かなにかで聞いたような記憶があります。しかし、本書では、さらに一歩踏み込んで(?)明治天皇の衝撃の朝食メニューが紹介されている。これは元側近による座談会から引用されているので孫引きになってしまって申し訳ないですがびっくらこいたので引用しておきます。

朝のお食前に差上げるコーヒーは一合入りが二本で黒い色をしていましたが、牛乳が少し入った色をしていました。それを召し上がるのはパンではなくて、生の麩でした。水っぽい餡が入っていました。


まさかのカフェオレ&麩饅頭。東進ハイスクールの林先生なら「なに飲むの? お茶でしょ!」と突っ込んでしまいそうです。さまーずの三村さんなら「カフェオレ好きかよ!」とツッコムところでしょうか。まあとにかくカフェオレがお好きだったようです。それから甘いものも。ただ、このカフェオレ&麩饅頭説に対して、従来からのカフェオレ&パン説も根強いらしく、どちらがどのくらいの頻度だったかは分からないようです。


また、明治天皇の食事中の服装も紹介されているが、ものすごくリラックスした様子で驚きました。もちろんプライベートな場での話ですが。正直、そのあたりのおっさんと変わらない格好に衝撃を受けました。そのあたりのおっさんと言っても地域差、年齢差、個人差などがあるのは承知しているので、気になる方は明治天皇の朝食時の格好が、あなたのまわりのどのおっさんに近いのか本書で確かめられると良いかと思います。


それから、本書を読んだことで皇后美子にも非常に興味がわきました。皇后美子は、皇后として初めて西洋式のメイクを取り入れた方ということになるのですが、伝統的な化粧法(舞妓さんのそれですね)から西洋式メイクに切り替えた日付けまでわかっているんですね。明治何年くらいのことか想像つきますでしょうか。皇后美子に関しては、喫煙のエピソードとかも凄く面白かったです。とにかく大変な愛煙家だったようです。


「家族」ということで言うと、明治天皇の愛犬についての話題もありました(ちなみに大正天皇のペットはご存知でしょうか。本書にはそれも出てきます。)。明治天皇の愛犬ボンと、天皇に仕えるお小姓(公家の子弟で構成されていて彼らには侍従職出仕という役職名がついている)との「攻防」はコメディみたいで腹を抱えて笑いました。また、お小姓たちのエピソードがそれ以外にもいくつか紹介されていて、彼らの睡魔との戦いとかも非常に微笑ましかったです。




以上で触れたような皇室のプライベートに対する野次馬的関心として面白いという面だけでなく、皇室というシステムを理解する上でも興味深い指摘があった。最終章の第七章は「様変わりする歴代皇室」と題されて、明治天皇以降の皇室の変化が概観されている。この中で著者は、皇室の結婚の分岐点として、今上天皇美智子皇后との結婚よりも、昭和天皇と皇后良子の結婚を強調している。これは、宮廷改革との結びつきから分析されているのですが、非常に面白かったです。


また、昭和天皇が推進した宮廷の合理化が、結果的に、皇室の外部からの情報を遮断してしまう一因となったという指摘もあった。これは、具体的には、明治期には存在した「侍従詰所」の廃止と絡めて議論されている。この指摘が正しいとすれば、その後の歴史にも重大な影響を及ぼしたことになるが、こういった宮廷制度と政治との関わりが本格的に分析されているのであればちょっと勉強してみたいなと思ったがどうなんでしょう。ご存知の方がいらしたら教えてくださいませ。




本書全体を通じて、伝統の維持という視点が宮中の生活でいかに重視されているかが理解できる。天皇が風呂に入る手順とかを読むと、笑えるほどくつろげない入浴でびっくりする。とにかく前例、先例が重視されるのだ。しかし、その一方で、本書を読むと天皇自らの意向でルールがある意味で簡単に変えられているように見える部分もある。そしてなにより、明治以降、皇室においても急速な西洋化が進められたという事実がある。このあたりの力学がどのように決定されているのか、天皇個人の意向で変えられる部分と変えられない部分、その辺りのところをもう少し推し進めて分析していただけるように期待したいなどと思った。





これ以外にも本書を読むと以下のことが分かる。

  • 天皇の食事では、天皇が実際に食べる量よりも多めに盛り付けられているが、それはなぜか?
  • 大臣や将軍が明治天皇に拝謁する際、天皇は椅子に座らずに起立したままだったので、当然相手も終始起立していたという。ところが、例外的に椅子を賜った人物が三人いたそうだがそれは誰か?
  • 明治天皇が大好きだった質問というのがあって、侍従職出仕(公家の子弟で構成されるお小姓)などにたびたび問うたそうであるが、それはどんな質問だったか?
  • 明治初期には宮中に西洋料理のマナーを知る人物がいなかった。そのため明治天皇侍従職出仕であった西五辻文仲にマナーを習ってくるように命じたが、西五辻はどこで習ったか?
  • 天皇が女官の体力増進のために考案した緞通巻と呼ばれた運動があったそうだが、これはいかなるものか?(これはすごくユニークで面白い)
  • また、侍従や侍従武官にも天皇自ら考案した「間数」と呼ばれるゲームをさせたというが、これはどんなゲームだったか?
  • 天皇がお風呂に入る時には、天皇専用の風呂場(御湯殿)とは別の場所にある釜で湯を沸かしておいて、それを手桶で御湯殿の湯船まで運ぶという面倒なことをするという。このお湯を湯船まで運ぶのは誰の役目か? ヒントを出すと、この人達は猪瀬都知事の『ミカドの肖像』にも出てきます。ちなみに、運ばれてきたお湯を湯船に入れるのは別の役職の人というややこしさ。
  • 明治天皇の側室(権典侍)は基本的に世間からの注目を浴びることはなかったが、一度だけ一般の人々が衝撃を受けた「事件」があったというがそれはいつ起きたか? また、なぜそういう事態になったか?

ということでいろんな意味で面白かったです。新書なのですぐ読めます。

なぜ大どろぼうホッツェンプロッツは死なないのか?

この物語は自分のために書かれたに違いない。不思議とそんなふうに感じる作品がある。そう感じるかどうかというのは、面白い面白くないという感覚と必ずしも対応しているわけではなくて、例えば鴎外も漱石も面白いけれど、鴎外の作品を読んで自分のために書かれたというふうに感じることはまずない。これが漱石になると、自分のために書かれた感がかなり強くなる。これは読む時の年齢によってもまた違う感覚があるのだろうし、もちろんこういう感覚というのは人それぞれにあって、それぞれに愛着のある作品というのがあるんだろうと思う。




オトフリート・プロイスラーさんが亡くなられた。
→「オトフリート・プロイスラー氏死去=ドイツ児童文学作家



小学生のとき、従兄弟の家で『大どろぼうホッツェンプロッツ』を読んだ時、これは自分のために書かれたんじゃないかと本気で思った。主人公のカスパールと仲良しのゼッペルは本当の友達のように思えたし、カスパールのおばあちゃんは本当のおぱあちゃんのような気がした。フランツ・ヨーゼフ・トリップさんのキモカワイイ挿絵の力もあってグイグイと物語の世界に引き込まれていった。


小学生の自分にはなんのことかよく分からない物も出てきてそこがまた魅力だった。ハンドルを回すと「五月は、ものみなあらたに」を演奏する手挽きコーヒーミル、というのが物語の冒頭に出てくるのですが(本文中では「コーヒーひき」となっている)、当時我が家にはコーヒーミルがなかったこともあって、父親に訊ねた記憶がある。なんでこんなつまらないことを覚えているかというと、後日、父が、コーヒーミルとはなにかを説明するためにわざわざ本物のコーヒーミルを購入してきたからだ。インターネット、なかったんですね、改めて思うと。


『大どろぼうホッツェンプロッツ』シリーズは、食べる場面の描写がまた素晴らしい。

カスパールとゼペットは、なまクリームのかかったプラムケーキを、おなかがひめいをあげるほど、どっさりたべました。

カスパールのおばあさんのうちでは、木曜日は、やきソーセージにザワークラウトーときまっていたからです。
 やきソーセージにザワークラウトは、ガスパールとゼッペルの大好物です。ですから、もしも、ふたりののぞみどおりに、ことがはこべるものなら、一週間は、七日とも木曜日にしたいところーあるいは、もっと欲をいえば、一週間をばいにして、十四日とも木曜日にしたいろことでした。

ホッツェンプロッツは、いろいろな薬味を小さくきりきざみ、それをフライパンに入れて、かきまぜました。ーすると、すぐにおいしそうなにおいが森の中にひろがっていきます。カスパールとゼペットは、口の中につばがわいてきました。
(中略)
「いただきます!」
 少年たちは、どろぼうのごちそうを指でたべるのです。そのために、いっそうおいしくおもいます。


それからホッツェンプロッツ・シリーズは3作品あるわけなんですが、「オチ」の部分が凄く好きで、ストーリーと関係ないので3つとも引用しちゃいます。

それで、ふたりは、たいへんしあわせでしたから、もうだれとも、かわりたくありませんでした。もちろん、コンスタンチノープルの皇帝とも、かわりたくなかったのです。

そして、いまは、どんな人ともかわりたくないほどーたとえジェットコースターの無料パスをとってくれるといっても、かわりたくないほど、しあわせでした。

そして、ふたりは、だれともかわりたくないほどーじぶんじしんとさえもかわりたくないほど、たいそうしあわせでした。

このなんか同じ調子を繰り返していく感じが凄く好きで、考えてみると自分が文章を書くときももの凄い影響されているなと感じます。


今は、自分の子供が『ホッツェンプロッツ』を好きになっていて、それはなんか不思議な感覚ですけど、やっぱり凄く嬉しいですね。「ホッツェンプロッツ」とか「ディンペルモーザー」とかかなり言いにくそうですけど。ていうか言えてないですけど。


今回プロイスラーさんの訃報に接しても、全然実感がわかないですね。でもとりあえず今は「ありがとうございました」って言いたいと思います。寂しいですね。なんだかホッツェンプロッツのように「ふたたびあらわれ」たり「みたびあらわれ」たりするような気もしています。