人はいかにして罪と向き合うのか?

今年も細々と読んだ本の感想などを書き連ねてきましたが、今年最後は『ライファーズ 罪に向きあう』という本について書きたいと思います。個人的にはこの一年で最も感銘を受けたのがこの本でした。




タイトルにある「ライファーズ」というのは耳慣れない言葉だと思いますが、日本語では終身刑もしくは無期刑受刑者に相当する。殺人など凶悪な犯罪を犯して服役している人々である。本書はアメリカの刑務所で服役しているライファーズが、自分のこれまでの人生、犯した罪に徹底的に向き合い、人間性を回復し「生まれ変わる」姿を追ったドキュメントである。


著者は映像作家の坂上香さん。坂上さんは、「アミティ」という団体の活動を通じて「罪と向き合う人」を描く。「アミティ」は、アメリカの民間団体で、「名目上は薬物依存者を対象にしている」が、実際は「ありとあらゆる嗜癖問題を抱えた人々がいる」という。活動も多岐に渡っており、共同生活を基本とした社会復帰施設をはじめ、仮釈放者向けの施設や通所のプログラムなどがあるという。


アミティが行っているプログラムのベースとなるのはtherapeutic community (TC) という概念である。日本では治療共同体や回復共同体と訳される。

ある考え方や手法を使って、同じ類の問題や症状を抱える人たちの回復を援助する場のことだ。多くの場合、同じ問題や症状を共有する人々が語り合うことを通して互いに援助しあう、自助グループのスタイルをとる。


アミティが非常にユニークなのは、まずスタッフの多くが自身も元受刑者で「壮絶な過去」を背負っていることだ。餅は餅屋と言うと不謹慎に響くかもしれないが本書を読んでまさにこの言葉が当てはまる気がした。アミティではスタッフのことを「デモンストレーター」と呼ぶそうだが、彼らはまさに体現する者なのだ。同じような境遇から見事に立ち直った人たちだけが持つ説得力がアミティの活動を支えているようだ。


本書を読んで、個人的に最も衝撃を受けたのは、この言ってみれば一民間団体に過ぎないアミティが、出所後の復帰支援だけではなく、刑務所内で更生プログラムを展開しているという点だった。例えばアミティは、カルフォルニア州などの矯正局から委託されて、刑務所内での更生プログラムを実施している。つまり、刑務所内で受刑者による治療共同体=TCが築かれるということだ。


そしてこの刑務所内TCで不可欠な存在となっているのが前述のライファーズだという。ライファーズは服役期間が長いこともあり、刑務所内での影響力が大きい。アミティのプログラム参加歴も長くなる。そして研修等も受けて経験を積み、服役したままスタッフと同様のデモンストレーターになる者も出てくるというわけだ。そして自らの経験を活かして他の受刑者を導く。

彼らの変容を目の当たりにして、他の受刑者も変わりたいと思うようになる。積極的な参加、真の友情、本音を語ること、リスクを恐れず最も辛い事をさらけだすこと・・・。自らの姿勢を通して本音で語れる場を彼らが率先して創造している。ライファーズは身体を張って、進むべき道を指し示す道標になっていたのだ。


挫けそうになる仲間を励ますライファーズの言葉が紹介されているが、その一つ一つが非常に力強い。もちろん、「更生」に成功した事例を中心に取り上げているからということもあるのだろうけれども、人間は本当にここまで変われるものなのかと思えてくるような例が紹介されている。著者の坂上さんは、アミティへの取材の過程で、ライファーズのおかげで自分は立ち直れたという言葉を幾度となく耳にしたという。アミティの支援を受けた受刑者の再犯率は劇的に低いという。



こうしたアミティの「成功」を支えているのがアミティの理念なのかもしれない。本書はアミティの特徴を次のように指摘する

米国には、依存症者の治療を目的とした施設が数多く存在するが、アミティとそれらの大きな違いは、単に問題行動を止めるのではなく、人間的な成長を目指すところにあるといえる。そこに欠かせないのが、人とのつながりだ。


受刑者の多くは生まれ育った環境に問題を抱えている。彼らにとって「TCでの日常こそが、生まれて初めて体験する安全なホーム」ということになる。

アミティでは、ホームを、敬意、人間性、希望、ユーモアという四つの要素から成る場と定義している。彼らは刑務所という空間で寝食を共にしながら、それらを学び直し、実践していく。そこは、暴力や罪に向きあうスタート地点、といえるのかもしれない。

「暴力や罪に向きあうスタート地点」に導くというのは犯罪者を「甘やかし過ぎ」なのではないかと感じる人もいるかもしれない。犯した罪に見合った罰が与えられるべきという意見も分からなくはない。しかし、いったん服役してもいずれは社会に戻ってくるということを前提に考えたならば、刑務所に求められる機能のひとつにこの「暴力や罪に向きあうスタート地点」に導くということが求められて然るべきではないかと思う。本書に「被害者支援が先か、加害者支援が先か、と優先順位をつけるのではなく、被害者も加害者も、そして各々の家族や周囲も、ニーズのある誰もが長期的かつ継続的なサポートを受け、変容を遂げていける場が必要なのだと思う。」という指摘があった。確かに、加害者の改心を促すことも、被害者を慰撫することもできないのであれば、それはある意味では社会としての敗北を意味しているようにも思う。


本書では、修復的司法という概念をベースにした、被害者、加害者、コミュニティとの関係修復の試みなども紹介されている。そういう意味では本書は刑務所のエコロジーで完結したものなどではなく、犯罪が生まれるまでの道程から贖罪の過程を経て出所後の試練までも視野に入れたものであり、様々な立場の人の心を揺さぶる一冊なのではないかと思います。今日はクリスマス・イブ。ほとんどの日本人には関係ないわけでしょうけど、せっかくなので便乗して好きな人との距離をさらにもう一歩縮める日にすると同時に、立場の違う人との距離も一歩は無理なら半歩でもいいので縮まるように心がけてみてもバチは当たらないかもしれません。



良いクリスマスを。良いお年を。良い世界を。

先生がこどものためにできること。親が先生のためにできること。

『教えるな!―できる子に育てる5つの極意』 (NHK出版新書)を読んだ。



タイトルを見て、親がやいのやいの言わんでも子供が勝手にバリバリ勉強し始めて、もうお願いだから勉強やめてみたいな未来予想図を思い浮かべて先走ってニヤニヤしながら読み始めました。


確かに、家庭での子供との関わりについて書かれた部分も面白かったのですが、全体を通読してみて、学校の先生の指導の仕方や、学校と家庭との連携について書かれた部分が個人的には一番面白かったので少し紹介してみます。


まず著者の戸田さん(教師を長らくやられていた方のようです)は「考える力の基本となるのは、自由闊達な好奇心と問題意識」であり、それゆえに、授業においては「子どもの自由な発言を歓迎する雰囲気が大変大事」になると説きます。


本書では、授業での小学四年生のやんちゃな男の子の「突っ込み」をきっかけにして、アドリブで学習を深めていった先生の対応などが紹介されていました。ただ、もし私が先生で、生意気なやんちゃな男の子から途中でチャチャを入れられたら、思わずカッとしてその子の胸ぐらをつかんで「尻の穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わしたろかぁ」などと言ってしまいそうです。やはり本物の先生というのはやはり立派です。私が先生にならなかったことを日本人はもっとありがたく思った方がいいとも思いました。


さて、授業もブログも脱線が命ということで無理やり脱線してみましたが、話を元に戻しましょう。本書では、自由な雰囲気の授業こそ思考を発展的に伸ばす大事な要素なのだから、授業での「横槍」や「突っ込み」を歓迎しない先生はその姿勢を改めて、横槍脱線を歓迎しましょうと説きます。


この横槍脱線歓迎論については、なるほどなと思う一方で、一抹の不安がよぎったのも事実です。自分のこどもの授業参観などを見ていると、低学年の子などは残念ながら猿に毛が生えた程度の節度しか持ち合わせがありませんから、一度脱線すると歯止めがきかなくなって、はてなハイクのような状態になりかねないなと想像したわけです。


この脱線をうまく活用して授業を活気づけつつ学習を深めていくというのは一種の芸のような部分があるでしょうから、先生方の経験に依存する面が大きいと思うわけですが、そうした個々の先生の努力以外に、制度的に脱線をしやすくする方法はないのでしょうか。この点についても、本書の中にヒントがありました。以下に二点だけ紹介したいと思います。

  • 時間割を先生の裁量で柔軟にする

第三章の「押しつけるな!」で、小学校の時間割をフレキシブルにしてはどうかという提案がしてあって、これはなるほどなと思いました。

小学校では専科以外の科目は担任の先生がだいたい全部もちますから、時間割もいろいろ融通がつきます。たとえば中高学年になれば、時には、算数を二時間続けてやってもよいでしょう(と言っても休み時間はとって)。理科で実験するときなども、四五分ではたりないときもあるのではないでしょうか。


こういう感じで時間割に関して先生方の裁量を大きくして、学期単位くらいで学習進度の帳尻を合わせればいいということにすれば、その時々の生徒の反応を見つつ、ここぞというときに思い切って脱線してみることに対する心理的抵抗が小さくなるような気がしました。

  • 学校と親がざっくばらんに話し合う

第五章「断ちきるな! 学校、家庭、地域に広がる、つながる」では、学校と家庭との連携についても検討されていました。この章ではPTA活動について、先生側が主導権を取りすぎて、自主的な活動が形骸化している点、またPTAは教育内容には口出ししないという不文律があることが問題だと指摘します。確かに地元のPTA活動における学校と保護者の関係というのは、決して険悪なわけではないけれども、どこかよそよそしいというのは私も感じています。


本書では、先生側がむしろ、保護者に「学級運営の根幹に一緒に関わってもらう」ようにすべきと主張します。現状を鑑みるとこれはかなり過激な意見のような気もしましたが、言われてみると確かに親の側が先生にどういう指導を希望するのかという点はすごく大事なことであるにもかかわらず、それをざっくばらんに伝える機会って意外にないということにも気づかされました。なにか問題が生じたときだけ先生とコミュニケーションを取るのでは先生方も萎縮してしまうでしょうから、例えば「体罰はいかんけど、子供がわるさしたら、ガツンと叱ってください」とか事前に伝えておけば先生も毅然とした対応がとれるでしょう。


その他にも学校とPTAとの連携について具体的な提案がいくつかされていましたが、その中で特に、校長先生など学校側のトップと、各学級のPTA代表との連絡協議会を定期的に開催することが提案されていて面白いと思いました。そしてそれに関連して次のようにも指摘されていて芸が細かいなと感心しました。

PTA内のことに目を向ければ、役員と一般会員の間に温度差が生じる傾向がありますから、定期的に開く学校責任者と学級の役員の会には、希望者は誰でも参加できる方式がよいのではないかと思います。


PTAの活動というのも地域によって多様なのかもしれませんが、専業主婦モデルともいうべきシステムが残存していて、総会や連絡会が平日の昼間にあったりして、事実上一部の家庭しか参加できないようになっていたりもします(そういう人に役員などを押しつけてしまうという側面もあるんですけどね)。なるべく多くの家庭が参加できるように制度を整えて、先ほども触れたように、親の側も何か不満があるときだけ学校とコミュニケーションをとるという姿勢を改めて、例えば担任の先生の良い試みがあれば、先生本人には勿論のこと、校長先生や教頭先生にもその気持ちを伝えることが学校のあり方を変える第一歩として大事なのかなと感じました。



そして、本書にあった指摘で非常に印象に残ったのは、上述の活動はすべて校長先生の裁量で可能だよという点でした。実は現在の制度下でも、校長先生の決断ひとつで学級運営のあり方、ひいては学校のあり方というのは随分変わる可能性があるんだなと改めて思いました。


本書で展開される著者の主張のすべてに賛同するというわけではありませんでしたが、家庭での学習にとどまらず、学校のあり方や地域社会との連携まで話が展開されていて色々と考えさせられる一冊でした。著者が元々先生ということで全体的に先生に対する要求が厳しめかなと思いましたが、経験に基いて学校での教師の心得が説かれているので若い先生方向けなのかなとも思いました。

モーツァルトの息子とヒトラーの兄弟

池内紀さんのエッセイ『モーツァルトの息子 史実に埋もれた愛すべき人たち』を読んだ。



本書の裏表紙には次のようにある:

実在しながらも歴史の中に消えていった30人の数奇な運命を描く。

また「文庫版のためのあとがき」で、著者自身は本書を次のように位置付けている

この『モーツァルトの息子』に入っている三十人は、読書の裏通りで出くわした人々である。ものものしい伝記を捧げられるタイプではなく、その種の伝記にチラリと姿を見せ、すぐまた消える。ただなぜか、その消え方が印象深い、そんな人たち。

30人の生き様が小気味良く描かれている。実在の人物が描かれているのだが、ミステリーの短編集のような味わいがある。一編読み終えるごとにフーッと息を吐いて軽く高ぶった気持ちを整える。表題作の「モーツァルトの息子」や、ノルウェーのノーベル賞作家クヌト・ハムスンを描いた「ヒトラーの兄弟」などがタイトル的にはキャッチーだけど、それ以外の物語の方が私好みだった。19世紀オーストリアの「落書き魔」、三十年戦争期のスウェーデン女王、罵倒だらけの旅行記の著者、ミケランジェロを脅した美術評論家、理由なき殺人を繰り返したイギリス紳士、などなど多種多様な人々が登場する。そこには、その人らしい人生、その人にふさわしい人生、などがあるわけではない。ただただ、その人の人生があるだけだ。


色々と小ネタも満載でそこも面白い。「貴族の血」と題された1編の主人公はサイレント映画の巨匠エーリッヒ・フォン・シュトロハイムなのだがこんなエピソードが出ていた:

撮影にあたりシュトロハイムは、貴族の館を寸分たがわずハリウッドに再現した。壁、壁紙、カーテン、ベッド、敷物、装飾・・・・・・。すべてがホンモノでなくてはならない。(中略)召使がそっとドアをノックする。ノックの音が気に入らないので撮影に三日かかった。


彼はサイレント映画を撮っていたのだが。そしてこの異常なまでに「ホンモノ」に拘った自称元貴族という映画監督の経歴自体が実は・・・というオチがつく。


オチと言えば、この本の浮き沈みも面白い。再びあとがきを引用してみる

書き上げていた四十人ちかくから三十人を選んだのが『姿の消し方』(集英社、一九九八年)のタイトルで本になった。多少の自身もあり、わりと気に入っていたのに、なぜか早々に書店の本棚から消えてしまった。
 以来十年。このたび知恵の森文庫に新しいタイトルで甦る。とてもうれしい。


読めた私も嬉しい。まあ景気の悪いニュースが続く毎日ではあるけれども、「史実に埋もれた愛すべき人たち」の人生に触れてほっと一息ついてみたりしたのだった。

パスタを食べると皮肉な懐疑主義者になる?


岩波ジュニア新書の『パスタでたどるイタリア史』を読んだ。



著者は池上俊一さん。ブロフィール欄を見ると、ご専門は西洋中世・ルネサンス史で東大教授とある。さぞ華やかな人生を歩んでこられたのだろうと想像していたら本書のあとがきは次のように結ばれる:

 生まれてこの方、浮き浮きと心が華やぐことなどほとんどない、低調な人生を歩んで来た気もするが、日本全体、いや世界全体が重苦しい雰囲気に包まれた最近は、一層、物憂い気分である。


どうだろう。このネガティブなグルーブ感がなんとも言えない。こういう感じ好きです。


そして、この部分は次の文章で締めくくられる:

 本書を書き上げた今、読者の皆さんに、そして自分自身にも、こう呼び掛けたいー
「パスタでも食べて、ちょっと元気だそうよ!」


このささやかに元気が出る感じがなんとも言えない。大好き。きっとこの方良い人だと思う。東大の学生の意見を聞いてみたい。いや、万一聞かなきゃ良かったという結果になったら嫌だからやっぱり聞かない。


それはそれとして。この『パスタでたどるイタリア史』。まずジュニア新書ということもあって読みやすい。そして面白い。「イタ公がトマト、トマト言うてるけど、トマトがヨーロッパに入ってきたのは大航海時代以降やからねえ」みたいな話かと想像していたけどスケールが違う。扱う範囲は古代から現代まで。


古代ローマ時代には既に「パスタ」の原型が存在していた。にもかかわらず、ローマ帝国滅亡以後、ゲルマン人が支配する時代にはパスタは衰退する。なぜか。ゲルマンの食文化との関係からこのパスタの衰退を考察する部分は非常に興味深い。


また19世紀のイタリア統一の後、「イタリア人」を産みだす役割を果たしたのも料理であったという第四章「地方の名物パスタと国家形成」もとても面白かった。1861年に統一されるまで例えばナポリとヴェネツィアとは別の「国」のようなものだったということは世界史でも出てくる。例えば、「イタリア」内での言語の多様性については、フランスの小説家のスタンダールの逸話を思い出す。イタリア大好き人間だったというスタンダールは、自由主義者として政治の世界でも活躍しており、領事としてイタリアに滞在していたこともあったという。フランスでイタリア語の勉強をしてフィレンツェに到着してトスカーナ弁を聞いたとき、一言も理解できずアラビア人から話しかけられたと思ったという。この逸話がどこまで本当か分かりませんが、こうした言語の多様性を「イタリア語」として「統一」する役割を果たした人物として本書の第四章で登場するのが「イタリア料理の父」と称させるペッレグリーノ・アルトゥージさん。詳細は是非直接本書にあたっていただきたいのですが、152ページにある次のような記述を読むとちょっとワクワクするのではないでしょうか。

アルトゥージの料理本が生まれたのはまさにこの時期だったのですが、彼はなんと、料理を紹介する中で、ささやかな言語教育を組み込んだのでした。アルトゥージは、トスカーナ語、方言、専門語、卑語、女性言葉などを皆、「イタリア語」に移植して馴化させる、という道を選び、(統一)イタリア語と地方の方言の橋渡しの役割を果たそうとしたのです。



また第六章の「パスタの敵対者たち」も強烈。その中でも20世紀初頭の前衛芸術運動である「未来派」と呼ばれるグループの打倒パスタの動きは凄まじいものがあります。本書では未来派のリーダーであるマリネッティの「未来派料理宣言」なるものが引用してありますが、これが凄い。イタリア人はパスタなんか食べてるから「皮肉で感情的な典型的懐疑主義者」になってもうたんやでコラと堂々と主張しています。どうしちゃったのマリネッティさんという感じ。やっぱり「未来」とか言ってる人はやぱいのかも! とか、いらんこと言ってる場合じゃない。


とにかく古代から現代までのイタリアの歴史がパスタでひとつなぎに描かれるというのは読んでいてもなかなか快感でした。是非みなさんも読んでみてください。

「調べる」ことを調べたインタビュー本を読んだ


『「調べる」論 しつこさで壁を破った20人』を読んだ。



著者の木村俊介さんのプロフィールには「インタビュアー」とあるように、インタビューという形式で「調べる」ということについて掘り下げている。著者自身の言葉を借りると「今回は「調べる」ことについて取材で「調べる」構造」をとったということになる。この本の「はじめに」で次のように述べられている。

 調べることには、各分野ならではの可能性もあるけれど、その可能性を知るまでには、長い期間をかけて特定の調査の世界に潜り込み、いわば特殊な業界の不文律に頭や体を改造されるほどに実践や訓練を経なければならないという面もあるのではないのだろうか。
 一人の人間に残された時間は限られている。たくさんの種類の調査の「けもの道」のようなものがあっていいのだけれど、一人ではそのいくつかの道を究めることしかできない。だから、調べる人は、他の分野の方法論についてはあまりわからないところもあるわけだ。そこに、いろいろな分野の経験談を聞いて伝える、この企画の意義もあるように思われる。


この引用部分を読んで面白そうだなと思って読み進めた。読んでみて確かに面白かった。副題が「しつこさで壁を破った20人」なのだが、超メジャーな人は一握り(*自分調べ)で、「この人たまに名前を見かけるけどどんな人なんだろう」と思わせる味わい深い人選なので、それぞれの波瀾万丈に初めて触れて「へー」と思う箇所が多数あった。同じ分野の人の経験談を聞いて参考にしたり、他分野の人の経験談を聞いてインスパイアされる面も多いのではないかと思う。


目次は次のような感じで:

第一章調査取材で、一次資料にあたる
 鈴木智彦 フリーライター
 出井康博 ジャーナリスト
 栗原俊雄 毎日新聞学芸部記者
 加藤弘士 スポーツ報知プロ野球担当記者


第二章「世間の誤解」と「現実の状況」の隙間を埋める
 本田由紀 教育社会学者
 阿部 彩 貧困問題研究者
 本田美和子 内科医
 浅川芳裕 雑誌編集者


第三章膨大なデータや現実をどう解釈するか
 佐々木 融 為替ストラテジスト
 渡辺 靖 文化人類学
 佐藤克文 海洋生物学者
 中田 亨 ヒューマンエラー研究者


第四章新しいサービスや市場を開拓する
 宮川淳一 航空機開発者
 淵邊善彦 弁護士
 高木慶子 悲嘆ケアワーカー
 北村明子 演劇プロデューサー


第五章自分自身の可能性を調べて発見する
 野村萬斎 狂言師
 国広 正 弁護士
 萱野稔人 哲学者
 田島 隆・東風孝広 漫画家


終章インタビューを使って「調べる」ということ


というわけで面白かったのでぜひ読んでみてくださいで終わりでもいいのだが、読んで面白かっただけにもう少し突っ込んだ感想も付け加えておこうかと思う。


最初に述べたように、この本は「調べる」ということを調べたもので、その着眼は凄く面白いと思うし、「他の分野の方法論についてはあまりわからないところもある」というのはなるほどそうだよなと思う。ただ、著者の用いるインタビューという形式によって「いろいろな分野の経験談を聞いて伝える」ことで、それぞれの分野の「けもの道」の構造がどの程度明らかになるのだろうかという点は少し気になった。


実は最初に引用した「はじめに」で著者は次のようにも述べている:

調べるとは、問いから新しい現実を発見しようとする姿勢のことではないか。


この部分を勝手に解釈すると「調べる」というのは、これまで「問題」だとは思われていなかった現象を「問題」として捉え直すという面があるのだろう。各分野で活躍している人というのは問題の大小はあるにしても、そうした「問題化」に成功してきた人達なのだと思う。ではなぜ他の人にはできずに、その人が「新しい現実を発見」することができたのか、という点にもう少し力点が置かれても良かったようにも思う。新書のボリュームで20人の経験談がおさめられているのでひとりあたりの分量は少ない。そのおかげで読みやすくなっているのも確かだが、各分野の「けもの道」を記述するには一人あたりの分量が少なすぎる(と少なくとも私には思えた)。もちろん、各々の人が直面した困難とその困難をいかにして解決したのかという点が本人の口から語られてはいる。ただ、インタビューを読み進めていると、それぞれの人が「問題」を発見し、それを解決するまでのプロセスが、なんと言うかスムース過ぎるように思えてしまった。



それからインタビューという形式について。著者の木村さんは本書の終章で次のように述べる:

聞いた話の中から、確実な事実や情報を抽出するだけでなく、曖昧で形を持たず、そのつど入れ替わる「記憶」を残すのに、肉声はいい媒体だなと捉えるようになったのは、私が二〇歳だった頃、小説家の小島信夫氏にインタビューをした後からだと捉えている。


この取材の際に小島氏は次のように述べたという:

書いた文章は私の許可なしに、あなたが受けとったとおりに書いて下されば一番いいと思います。許可を得てまとめて、とやってしまうともっともらしくなってしまうからね。矛盾したりはみだしたり、あなたが誤解したならその誤解した部分も含めて出して欲しい


またこれに続く部分で、小島氏の「会話の中の一過性に留まらない曖昧な内容の広がりを大切にする」姿勢に影響を受けたとも語っている。確かにこうした部分にインタビューの面白さがあるというのは私も同感なのだが、こうした曖昧な部分を再現する際の紙媒体の優位性というのはどのあたりにあるのかなという点も少し考えたりもした。紙媒体を読んで抱いていた印象と、映像や音声から受ける印象というのは多くの場合かなり違っている。日本全体でみても文字で示されたインタビューだけから、実際にその人が語っている状況を読者が完全に再現できるのは矢沢永吉さんのインタビューくらいのものだ >

君はまさか非実在ハナミズキを知らずに死ぬのか


最近その存在を知った『ほんとの植物観察』という本がとても面白かったので、感想などをまとめておきたいと思います。勝手にどうぞ。了解了解。



さて、ではこの本はどういう本か? 「迷わず読めよ 読めばわかるさ」で済ませるのが手っ取り早いのですが、先ずはこの本のカバーのそでの部分に掲載されている紹介文を引用してみます

アサガオやアジサイ、サクラ、ツバキに、フジ、タンポポなどなど
・・・・・・。
この本で取り上げたのは、だれでも一度は目にしたことがある身近な植物ばかりです。
でも、アサガオを、アジサイを、あなたは本当に知っていますか?
「うそっ!」と「ほんと?」を見分けながら、植物の見方の本質を教えます。


この紹介文にもあるようにこの本で取り上げられているのは身近な植物ばかりなのですが、『ほんとの植物観察』と謳うだけあって目の付け所がシャープです。構成としては見開き二ページでひとつの話題が紹介されています。最初のページに、数枚のスケッチが掲載されているのが特徴で、例えば4枚のスケッチの中で実際に観察することのできるものはどれかというのがクイズ形式で提示されていて、二ページ目の「観察のポイント」というところで答えが解説されます。


例えば、42頁と43頁では「ハナミズキ」が取り上げられています。これはご存じの方も多いかもしれませんが、ハナミズキの「花びら」と思われているのは実は「苞葉」で、本当の花はこの苞葉に包まれてひっそりと咲いています。もちろん、この苞葉と花との関係も本書で丁寧に説明されているのですが、「観察のポイント」はさらに目の付け所がシャープになっています。42頁にハナミズキの4枚のスケッチがあって、それについての解説が43頁にあるのですが、その部分を引用してみます:

図3が正しいスケッチです。冬芽は花と葉の混合芽で、対生する二本の枝の中央に四枚の苞葉を持った頭状花序を一個つけます。枝のもとには二枚の鱗片葉をつけ、その枝の先には、開花時に二枚の葉を対生につけますが、鱗片葉は正常に伸びることはありません。
 図1は苞葉の先端が丸く、図2は苞葉が五枚、図4は花軸に葉をつけているので、いずれも実在しません。


解説だけ読むとちょっと分かりにくいかと思いますが、スケッチを参照しながら「実在ハナミズキ」と「非実在ハナミズキ」とを分かつ境界がクリアになっていくのがなかなかの快感であります。


また、本書はこうした「観察のポイント」だけでなく、悪い人ではないのだけれどもどうも会話が途切れがちになってしまう同僚とエレベーターで二人きりになってしまった際に気まずい沈黙を破るのに役立つ豆知識もさり気なくちりばめられています。例えばハナミズキのところでは

樹皮を煎じてイヌの皮膚病の治療に用いるので、英名を「ドッグ・ウッド」といいます。


とありました。「ドッグウッド」をきっかけにしてどのように会話を弾ませればよいのかという疑問に対する解を我々人類が未だに手にすることができていないという事実は確かに大変残念ではありますが、そのことが本書の価値を損なうことにはならないでしょう。





今まで同じに見えていたものの中に違いを見出す、あるいは、今まで違うと思っていたものの間に共通点を見出すという行為こそが「ほんとの観察」だとすれば、我々を取り巻く世界は「ほんとの観察」によってその都度新たに構築されなおされているということになります。それが観察という行為が潜在的に持つ悪魔的な側面であるとも言えるわけですが、不景気な世の中で政府にも革命家にも世界を変える力は残っておりませんので、植物に限らずありとあらゆるものをもう一度じっくり観察し直すことであなたを取り巻く世界を一変させるというのも一興かもしれません。とか余計なこと言ってないでとりあえず『ほんとの植物観察』を片手に身近な植物を観察してみたいと思っています。

君はまだ毛根の横幅が6cmある図鑑を見ていないのか?

前回に引き続き図鑑の紹介となります。その名も「世界で一番美しい人体図鑑」であります。



気の弱い私なら「ほんまに世界で美しいんやろなコラ、これでもっと綺麗な人体図鑑あったら尻の穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わしたろか」とか「世界で一番美しくなきゃダメなんですか、二番じゃダメなんですか?」などとクレームが入るかもなどと思ってしまって、「世界で一番美しそうな」とか「世界で一番美しいと思われる」とか「世界で一番美しい(笑)」とかにしてしまいそうなものだが、ずばり「世界で一番美しい」と言い切っているあたりがまことに清々しい。もし一番でないことが分かったらその場で腹を切りますという出版社の覚悟が伝わってくる。ハラキリの後はスキヤキ食べてゲイシャ遊びしてフジヤマに登ってくらさあいというサービス精神に満ち溢れている。とにかく、この島国日本からこの美しい人体図鑑を引っさげて世界に羽ばたこうという意欲が伝わってくるではないか。


と思ったのだが、この図鑑も翻訳版だった。しかも原題は「See inside human body」と売る気があるのかないのかよく分からないような腸素っ気ないものだ。日本語だと「人体内部見ろコラ!」という感じだろうか。ほとんどドリフの「風呂入れよ!」と変わらないレベルであり、日本の大手出版社なら係長の段階でダメだしを喰らうだろう。


しかし、実際に中身を眺めてみると、この原題の素っ気なさは出版社の自信の表れだということが分かってくる。とにかく素晴らしい。まずサイズがデカい。大きさが iPad 2個分くらいある。つまり広げると iPad 4個分になる。東京ドームだと何個分になるのかまでは流石に分からないがやはり図鑑はでかいに限る。例えば、この図鑑の中に「毛」という項目があって日本語版の20ページと21ページの2ページに渡って「毛」が描かれているのだが、これも当然でかい。イラストを定規で実際に測ってみると、なんと毛根の横幅が6センチもある。イマイチ伝わらないかもしれないがど迫力である。


我が家の子供達が梅ちゃん先生ブームの襲来に見舞われていて、その機会に人体図鑑を見せておくのもいいかなと思って購入したのがこの図鑑なのですが、子供達は想像以上にハマっていました。「生殖」という項目では、子宮内での赤ちゃんの様子がリアルに描かれているのですが、子供たちはまさに度肝を抜かれた様子でした。腎臓でオシッコができる仕組みや、食べ物がお腹の中でウンコになるプロセスも簡潔に要領よく解説してありますので、子供に説明するのにも便利です。


また各項目に「耳寄り話」という豆知識紹介的なコーナーがあって楽しめます。例えば「脚」という項目があってそこでの「耳寄り話」では

年齢に関係なく、大腿骨の長さは身長の約4分の1である。


という初デートで会話に困った際に切り札となる豆知識がさり気なく紹介されています。というわけで、この図鑑も子どもに限らず大人もハマること間違いなしの図鑑だと思います。日本語版の出版をしたエクスナレッジ社が「世界で一番美しい」と銘打ったのも納得の仕上がりです。






余談ですが、エクスナレッジ社は「世界で一番○○な××」というのがお得意のようで面白そうなのがたくさんありました。


また「世界で一番美しい」シリーズは創元社からも出ていて、ひょっとすると出版社間で仁義なき闘いが繰り広げられているのかもしれません。



しかも日経BP社からは「世界でもっとも美しい」シリーズが出ていて、シンデレラか!と突っ込まれそうな勢いですが読者としては面白い本が出てくるならそれでいいです。ハイ。