ホールデン少年のセンチメートル・ジャーニー

文春新書の『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を読んだ。


サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の翻訳をめぐって、村上春樹さんと柴田元幸さんが語り合ったものがまとめられたものだ。2003年に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が村上春樹さんの新訳で出版されたのを機になされた対談であるので、もう8年も前の本になる。


村上さんの新訳は当時から話題になっていたので、この『サリンジャー戦記』の存在も知っていたのですが、厳格な祖父から「俺の目の黒いうちは村上作品を読むことまかりならぬ」ときつく言いつけられていたために、今に至るまで読む機会に恵まれませんでした。


というような端的な嘘もふんだんに織りまぜながら、これからも最新でもなんでもない本ばかりを紹介していきたいと思っています。ということで、この『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を既に読まれた方も多いと思いますし、村上さんと柴田さんの翻訳をめぐるやりとりが面白くないわけがないというか、面白いわけがないわけがないというか、面白くないわけがないわけがないわけがないので、ここでは本の紹介というより、読んで面白かった点をメモメモする感じでログログしておきたいと思います。まず一つ目は、「you」の訳出についてです。


YOU 訳しちゃいないよ

ジャニーさんが村上春樹さんに「YOU 訳しちゃいないよ!」と言ったのか言わなかったのか、それは依然として深い闇に包まれたままですが、この『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』の中で、英語の「you」をどう訳出するかというのが議論になっていて面白かった。例えば p. 24-5

村上 野崎さんの訳は、僕がおぼろげに記憶する限りでは、「君の」とかいう言葉はほとんど出てこないんじゃないかな。


柴田 そうですね、まあある程度は出てきますが、いわゆるうまい日本語訳のやり方で、できるだけ落とすというかたちになっていますね。


村上 僕はそれとは逆に、この小説における you という架空の「語りかけられ手」は、作品にとって意外に大きな意味を持っているんじゃないかなと、テキストを読んでみてあらためて感じたんです。じゃあこの「君」っていったい誰なんだ、というのも小説のひとつの仕掛けみたいなっている部分もあるし。

たんに翻訳技術の問題だけでなく、『キャッチャー』における「君」の位置づけをどう捉えるかということが、作品自体の構造に深く関わっているというのが村上さんの解釈のようです。このホールデン君が語りかける you の問題はお二人とも非常に気になっていたようで、上記の引用箇所以外でもたびたび議論がかわされていて非常に面白かったです。


また、村上さんは、ホールデンが語る「you」だけでなく、たとえばホールデンの妹のフィービーがホールデンに向かって発する「you」の訳についても強いこだわりを示していて面白い。


p. 48

柴田 もう一つ印象に残ったのは、たとえば、フィービーがホールデンのことを「お兄ちゃん」とか呼ばずに、村上訳だと「あなた」と呼んでいるんですね。それもやはり同じ思想の・・・


村上 僕は、フィービーがホールデンに向かって発する you は、どう考えても「あなた」としか訳せないし、あれを「あなた」と訳しちゃいけないと、もし言われたとしたら、僕としてはこの本は翻訳したくないですね。断固拒否しちゃいますね。


この後で、なぜ村上さんは、フィービーがホールデンに向かって発する you を「あなた」としか訳せないのかについて説明があるのですが、これも作品自体の解釈に関わる話でおもしろかったです。その解釈に納得できるかどうかは別にして、とても面白いので是非読んでみてください。




イノセンスについて

p.77に、サリンジャーの娘のマーガレット・サリンジャーの自伝に出てくるエピソードが紹介されていて、そこからサリンジャーにとってのイノセンスの有りようが語られています。エピソードの詳細については本書に譲りたいと思いますが、そのエピソードをもとに村上さんは次のように述べています。

ということは、サリンジャーは、子どもは好きだけど、妊娠するという行為が許せないんじゃないか。そのへん、ちょっと怖いですよね。つまり、イノセンスは好きなんだけど、そのイノセンスを生み出す行為は認められない。彼にとってはおそらく、イノセンスというのは、そこにそれ自体としてあるべきものなんですよ。


このサリンジャーイノセンスに対して示す矛盾した態度というのは、『キャッチャー』の成り立ちを考える上でもとても興味ぶかい。最初に触れた、『キャッチャー』における「you」という存在の有り様とも関係しているのだろう。


さて、世界とか他者とかを避けて、自意識の中に引きこもる状態を、私は「センチメンタル・ジャーニー」ならぬ「センチメートル・ジャーニー」と呼んでいます。この『キャッチャー』という小説は、典型的なセンチメートル・ジャーニー小説ではないでしょうかね。「世界」とうまく接触できず、自意識の中だけをうろうろとする少年の孤独。そして、「世界との接触に違和感を覚える」というのは、程度の差こそあれ誰しもが感じる感覚だと思います。『キャッチャー』は読み進めていくうちにぐいぐいと引き込まれて、どんどんホールデン少年に同一化していく感じがあります。これには、ホールデンという「特殊」な少年に宿る「世界との接触における違和感」という普遍性が関係しているのかもしれません。


本書の最後に村上さんは『キャッチャー』の魅力を次のように述べている。

この本についていちばん素晴らしいと思うのは、そういうまだ足場のない、相対的な世界の中で生き惑っている人に、その多くは若い人たちになんだけど、自分は孤独ではないんだという、ものすごい共感を与えることができるということなんですね。それは偉大なことだと思うな。

個人的には、自分は孤独ではないんだという共感、というのは非常に分かるような気がしました。それは、ホールデンという圧倒的に孤独な少年、自分とよく似た面をもつ少年を発見して、ある種の安心感を得るということであろう。しかし、もし自意識への引きこもりがもたらす世界との隔たりを孤独と呼ぶのであれば、ホールデン少年に対する共感それ自体によって孤独が解消されることはない。


ホールデン少年への共感というのは、『キャッチャー』という小説がもつ「センチメートル・ジャーニー=自意識への引きこもり」を肯定する機能とも関係するのかもしれない。『キャッチャー』という作品に漂う底知れない暗さというものは、ホールデン少年のセンチメートル・ジャーニーに終わりが見えない、そうしたこととも関係しているのだろうと改めて感じさせられた。


『キャッチャー』を読んだことがない方は、読んでから本書を手にされると良いかもしれない。原作、野崎訳、村上訳をそれぞれ楽しむというのもありでしょうか。とにかく、『キャッチャー』の魅力、翻訳の魅力が縦横に語られた本なので、興味のある方は是非読んでみてください。柴田さんはあとがきで次のように述べておられませす。

小説について、ああでもないこうでもないと話しあうことは、今日ではだんだん少なくなってきているかもしれない。この本がそういう流れを少しでも逆転させることができたら、こんなに嬉しいことはない。


小説の解釈に正解はないので好きに読むのが一番だと思いますが、同じものを読んで自分以外の人がどう感じるのかということを知るのは面白いのではないでしょうか。






関係ないですが、『キャッチャー』を調べている過程で『キャッチャーという人生』という本を見つけました。赤坂英一さんいいですよね。