「箒の目」に美を見いだす少女

建築評論家の川添登さんの『環境へのまなざし』を読みました。



この本、様々な話題が取り上げられたエッセイ集なのだが、その中に「石庭論」という一章が設けられている。そこでは、枯山水の作庭そのものが禅の修行の一環であるという話が出ていて、若い僧は掃除のたびに熊手で白砂に紋様をえがくという行為が取り上げられている。


そしてそうした事例をもとに、著者の川添登氏は「身辺をつねに新鮮な清潔さにたもち、日常坐臥のうちに神仏を感じとるのは、神道と仏教とに共通する日本の宗教の基本で、そこに美もうまれた。」と論じている。


またこうした精神は庶民の日常にも及んでいたと述べられており、たとえば「囲炉裏や火鉢の灰を、その家の主婦が、灰かきによって美しい模様にえがく風習があった」というのもその一つであるという。


これが日本の宗教や日本人の精神性を特徴づけるものなのかどうかは私にはとても判断がつかないのだが、この章で紹介されている以下の話が強く印象に残った。やや長くなるけれども引用してみる。p. 153-4 

私が、まだ幼いころのことだった。ある夕暮れ時、家の前の路上に、二つ違いの姉が呆然とたたずんでいるのに気づいた。なにごとかとおもってかけよると、姉の見つめていたのは、隣家の誰かが竹箒で掃いたとおもわれる箒の目だった。私たちは、母親から箒の目をきちんとそろえて掃きなさい、とたえずきかされていたので、箒目をまっすぐに、つまりは線分のたばをかさねたように箒の目をつけて掃いていた。ところが、その箒目は、道幅一杯に半円の弧を重ね、つぎにそれを逆方向からと、交互に勢いよく掃いていたので、へんな掃きかただね、と私がいうと、姉は、かすかに首をふって、とても上手、とつぶやくようにいった。まだ小学生だった姉は、その掃き目の勢いをもった美しさに感動していたのである。


黄昏時に箒の目を見つめて佇む幼い二人の姿がまざまざと浮かんでくるようだった。美が見いだされる瞬間というのは、何がもたらすものなのだろうか?