思想界の四次元殺法コンビ「橋爪大三郎&大澤真幸」に萌える一冊


『ふしぎなキリスト教』という本を読んだ。



われらが橋爪大三郎先生と大澤真幸先生との対談である。くどくど説明の必要はないのでしょうが、橋爪大三郎先生は、一般には、故橋本龍太郎元首相の弟と間違えられてしまう傾向が未だにあるものの、大変アクティブな社会学者としてご活躍である。一方の大澤先生も、『戦後の思想空間』を挙げるまでもなくアクロバチックな論理展開で読者を置いてけぼりに魅了するというだけでなく、実は意外に「マサチ可愛い」などと言う女性ファンも多いという噂もあり、本邦思想界のエースと言っても過言ではない存在である。よく知らないけれども。とにかく良くも悪くも、どんな内容でも面白くしてしまうという悪癖があるおふたりのかけあいですので読んでて飽きません。



例えば冒頭。大澤先生が、ユダヤ教とキリスト教がどう違うのか、と橋爪先生に問いかけるのだが、それに対する橋爪先生の答えはこうだ。

議論のはじめなので、ユダヤ教についても、キリスト教についてもよくわからないという前提で、ふたつの宗教の関係を端的にのべてみましょう。
 では、その答え。
 ほとんど同じ、です。

豪胆である。もちろんここから補足があってそこには一定の説得力があるのだが、それよりもなによりも賞賛されるべきはその豪胆さである。全盛時のみのもんた(おもいっきりテレビ時代)の切れ味を完全に凌駕している。大澤先生の苦笑いがまざまざと思い浮かぶではないか。



それから、一神教における「神」という存在と、我々日本人が考える「神」との違いに触れた部分がこれまたイカしている。なお、本書では一神教の神の特異性を強調するために一神教の神を「God」と表記している。

Godは、人間と、血のつながりがない。全知全能で絶対的な存在。これって、エイリアンみたいだと思う。(中略)Godは地球もつくったぐらいだから、地球外生命体でしょ?
 結論は、Godは怖い、です。怒られて、滅ぼされてしまっても当然なんです。

「でしょ?」じゃないだろ。 さらに、それに対する大澤先生の対応を以下に示そう。

橋爪さんらしい明快で、ユーモアのあふれる説明ですね。

NHKの解説委員か! ちなみに、ここだけ切り取ると「大ちゃんの強引ながぶり寄りにタジタジとなるマサチ」という構図を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれないが、それは完全な誤解だ。この直後に、大澤先生は、なぜか昔読んだという丸山真男の宇宙起源論を突然思い出して披露するという荒技で一気に土俵中央まで盛り返している。次元を超えた空中殺法の応酬である。ここでのやり取りは本書のひとつのヤマ場であるから是非直接確認していただきたい。




さらにいくつか見てみよう。大澤先生がクリスチャンがよく口にする「アーメン」という言葉の意味を訊ねる場面がある。橋爪先生は次のように答えている。

「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「〜するゾー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。

豪胆である。キリスト教を新左翼に例えるという禁じ手を繰り出してくるあたりがさすがである。


次は、キリスト教における愛と律法の関係について議論するなかで、ヤハウェがアブラハムを選び出して呼びかけたという聖書の記述について話題が及んだ箇所での橋爪先生のご発言。

じゃあ、なんで呼びかけたのか。ちなみに、見ず知らずの誰かに声をかけて「ついておいで」と言うのを、ナンパという。神が、そういう行為をした。それは、仲よくしたいということでしょ、簡単に言えば。

簡単に言うな!



大澤 いずれにせよ、キリストの贖罪の論理というのは、なかなか難しい。・・・・ちょっとピンとこないところもある。ピンとこないというのは、あえて言うと、神様というのはなかなかユニークな性格の方ですね、ということなんですが(笑)。

あんたもや!



橋爪 この解釈なんですけど、神はなぜアベルの捧げものを喜び、カインの捧げものを喜ばなかったのか、書いてないんです。ここは読みようによってはたいへん理不尽に思える。ここは違和感なかったですか?


大澤 大いにありますよ。ただ『創世記』の特に最初のほうは、おかしなことが次々に起こるので(笑)、がまんして読めるんですよ。

ここはワロタwww




大澤 キリスト教というのは、ボールが存在しているはずのない真空の場所で思いっきり素振りしたら、どういうわけか真空の中から飛び出してきたボールに当たって、そのままスタンドインのホームランになってしまった、というような仕方で影響を残していると思うことがあります。

どういう仕方や!
聖書に影響されたのか、喩えの方が難しくなっている。






以上みたように、読み物として非常に面白いのだが、もちろん内容的にも初心者の私には面白かった。以下、アフォリズム風に、気になった表現を説明なしに羅列していく。気になる箇所があれば本書に直接あたっていただきたい。



  • 「世界が不完全であることは、信仰にとってプラスになる、と思います。」(橋爪)
  • 「この、Godとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。」(橋爪)
  • 偶像崇拝の禁止というのは、存在の否定が存在の極大値だよ、という感受性に規定されている。」(大澤)
  • 「一神教monotheismは、多神教polytheismと対立してる、とふつう言われる。でも、よく考えてみると、もう少し違ったところに対立軸がある。」(橋爪)
  • 「よく、この科学の時代に奇蹟を信じるなんて、と言う人がいますが、一神教に対する無理解もはなはだしい。(中略)科学を信じるから奇蹟を信じる。これが、一神教的に正しい。」(橋爪)
  • ドーキンスは、自分は無神論者で、キリスト教等のいかなる宗教も信じてはいない、と言います。たしかに、意識のレベルではそうです。しかし、(中略)あのような本を書こうとする態度や情熱は、むしろ宗教的だ、と思わざるをえません。」(大澤)
  • 「総じて言うなら、イエスの奇蹟は、奇蹟としてはささやかなものです。」(橋爪)
  • 「いまの話にちょっと補足していいかな。」(橋爪)
  • (中世の神学者・哲学者について述べた部分)「ぼくがよくわからないのは、そのさいに彼らが神の存在証明に熱中したことです。ふつうに考えれば、彼らにとって神が存在することは証明の対象ではなく、前提ですよね。」(大澤)


ちなみに、本書は三部構成になっている。構成は以下のとおり。

  • 第1部:一神教を理解する 起源としてのユダヤ教
  • 第3部:いかに「西洋」をつくったか


素人の私には面白かったが、本書の内容については批判もあるようで、批判本まで出ています。



まあこういうのを併せて読むことができるという状況を個人的には喜んでしまっていますが、まあ、おふたりもガチガチの宗教学者でも神学者でもないので、いわばマイケル・ジョーダンとペレがモハメッド・アリの偉大さについてブレインストーミングを行ったような趣に近い感覚で本書を噛みしめるというのもひとつの楽しみ方なのではないかと思っております。これは批判でも皮肉でもなく素直にそう思います。なにが素直なのか意味不明ですみません。

セックス、睡眠、飲み食い、夢の秘密を盛り込んだ贅沢な科学本

『からだの一日 あなたの24時間を医学・科学で輪切りにする』を読んだ。



最近、NEATという言葉をよく耳にしませんか。NEETじゃなくてNEAT。NEATは Non-Exercise-Activity-thermogenesis の略で、日本語だと非運動性活動熱発生とか言ったりするようです。要するにジョギングやウォーキングなどのエクセサイズ以外の活動によるエネルギー消費量のことです。「そわそわした身ぶり、姿勢を変える仕草、立っていること、歩くこと、指やつま先で机や床を叩く」などが含まれるわけです。


それで、最近なんでNEAT、NEATとやかましいかというと、一日の消費エネルギーの総量に占めるNEATの寄与がうわっと驚くくらい多いぞということが分かってきたからなんですね。例えば、タニタのサイト内で紹介されていた日本人を対象にした研究(アスリートじゃない一般の人が対象)ではその割合が 25-30%となっていました。もちろん、どんな人が研究対象になったかとか色々な留保がつくわけですが、とにかくNEATが馬鹿にならない量になるんじゃないかというのが最近の考え方のようです。


ダイエットをするときには、普通はジョギングやウォーキングなどの「エクセサイズ量」ばかりに目がいくわけですけれども、先に触れたようにこのNEATも馬鹿にならんぞということで万歩計ではなくてNEATにも対応した活動量計というのが注目されているわけですね。





ちなみに、上に貼った活動量計だと、NEATも測定して数値化する。そして、ウェルネスリンクというオムロンが提供するシステムと連動させれば、「活動で消費したカロリーが記録でき、あとで内容を分析することも可能」だそうです。凄いですね。



さて脱線しましたが、話を『からだの一日 あなたの24時間を医学・科学で輪切りにする』に戻します。実は本書でもこのNEATについて言及しています。第5章「ランチのあと」によると、過食の際に生じるNEATには個人差があるという。これはようは食べ過ぎちゃった後にそわそわ動き回ること火の如しの人もいれば、じーっとしちゃって動かざること山の如しな人もいるということなんですが、驚くなかれ驚くなかれ、この過食後の「落ち着きのなさ」についてある研究者は次のように考えているというのだ。

食べ過ぎたときに生ずるNEATは人によって異なる。たくさん食べてもそわそわと動きまわって、ほとんど安定した体重を維持した人もいれば、あまり動きまわることなく、最大で四キログラムまで太った人もいた。研究者たちによれば、この一人ひとりが生まれながらにもつ落ち着きのなさは、おそらく遺伝的に決められた脳内化学物質のレベルによって制御されており、これがその人のカロリー消費の一五〜五〇パーセントを占めるかもしれないという。


素直でない私がこれを素直に読むと、過食に反応して出てくる脳内化学物質があって、その出方は人によって違っていて、しかもそれは遺伝的な違いを反映している可能性があるということなんでしょうか。生まれつきNEATに見放された人がいるということか。にわかには信じがたい説であるが、これを読んでから食後の人の動きを観察するのが楽しくて仕方がない。実はNEATについては、第12章「眠り」でも言及されている。第12章では睡眠不足の人ほど太りやすいという興味深い研究結果が紹介されているのだが、これにNEATが関係しているというのだ。興味のある方は是非本書に直接あたっていただきたい。




もちろん本書はNEATのことだけを扱っているわけではない。日本語版のタイトルは『からだの一日』というお行儀の良いものだが、原題は『SEX SLEEP EAT DRINK DREAM』となっており、原著者は次のように解説している。

本書では、私自身の関心事と、読者の方々にも興味深いであろうと思われる話題に絞った。キスや抱擁からオーガニズム、マルチタスキングから記憶、トレーニングからストレス、午後の眠りから夜寝ているあいだに見る夢までを収めてある。


例えば、「あくび」について。私は酸素不足に反応性に出るという説を信じていたが、どうもこれは違うらしいという説が紹介されている。そして「あくび=社会的な信号説」が紹介されていて、あくびは伝染するかという問題を探求した実験も紹介されていて面白い。


その他ざっと挙げていきますが、本書を読むだけで次のようなことが分かりますぜ。

  • 一日のうちで心臓発作が最も起きやすい時間帯は? またそれはなぜか?
  • 一日のうちで歯の痛みを最も感じにくい時間帯は?(何時に歯医者を予約すべきか分かる!)
  • 香りが昔の記憶を呼び起こすのはなぜか?
  • 早起きすると金持ちになれるか?
  • ウディ・アレン遺伝子」というあだ名の遺伝子があるというが、これはどういう遺伝子か?
  • 新しい恋を見つけた人と長期の恋愛関係にある人の脳活動の違いとは?
  • スポーツの新記録が出やすい時間帯はいつか?(ただし、すべての運動がこの時間帯に適しているというわけではないらしく、ここがまた面白い)
  • アーミッシュの人たちはカロリーの高い食品もたくさん食べるが肥満率が著しく低いという(アメリカ国内での比較だけど)。それはなぜか?
  • ヘロイン中毒患者の性欲が低いのはなぜか?
  • 黄体化ホルモンの血中レベルは排卵が近づくと上昇するが、女性に男性のある部分の匂いを嗅がせると次のホルモンピークがやってくるのが早まったという。どこの匂いだろうか?
  • 精子の質は一日のうちでどの時間帯でピークを迎えるか? またテストステロンレベルはどうだろう? (ちなみにどちらも就寝時間帯とはずれている!)
  • ある研究者によると力いっぱい鼻をかむのは鼻をかまないよりも悪いという。それはなぜか?
  • 医学の分野にクロノセラピー(時間療法)というものがあるらしいが、これはいったいどういう療法か?
  • 睡眠時に悪夢を見る頻度には男女差があると主張する研究者がいる。どちらが悪夢を見やすいか?
  • 鬱血性心不全胃潰瘍、乳幼児の突然死症候群、骨破壊、片頭痛、喘息発作がピークを見せる時間帯とは?


もちろん、「定説」とまでは至ってない説も含まれるが、紹介されている研究のほとんどに出典がついているので気になる人は内容を確認することも可能だ。人間の不思議と自分の身体の不思議を改めて思い知ることができる一冊だと思う。

「こころ」はどこで育つのか

『「こころ」はどこで育つのか 発達障害を考える』を読んだ。



本書は、批評誌『飢餓陣営』主宰の佐藤幹夫さんによる精神科医の滝川一廣さんへのインタビュー集の第三弾。第一弾が『「こころ」はどこで壊れるか』、第二弾が『「こころ」はだれが壊すのか』、そして第三弾が今回紹介する『「こころ」はどこで育つのか 発達障害を考える』である。


滝川一廣さんは本書の意図を「まえがき」で次のように述べている

一つは社会という空間的なつながりのなかで、もう一つは発達の道筋という時間的なつながりのなかで、「発達障害」をはじめ、子どもたちの「こころ」が育まれてゆく姿をとらえることを試みた。


加えて、発達と性の問題を取り上げているのが本書のもう一つの特徴だろう。これは第四章で中心的に論じられている。個人的にはこの章が最もショッキングだったので先にこの章に触れようと思う。この章ではいくつかの「事件」が取り上げられている。


ひとつは「浅草事件」と呼ばれるもので2001年浅草の路上で女子短大生が刺殺された事件である。犯人がレッサーパンダのぬいぐるみの帽子を被っていたことなどもあり当時非常に話題になった。犯人に発達の遅れが認められたため(本書では自閉症とされている)、責任能力を巡って弁護側と検察が対立したが、最終的に無期懲役の判決が下された。本書によると、この事件では「性」という問題が重要な論点のひとつになっていたというが、ご存知だっただろうか。まず、検察側は動機を「強制わいせつが目的」だったと主張したが、本人は最後までそれを否認している。この動機をめぐる攻防の過程で、自閉症の人の性を巡って議論になったという(例えば、自閉症の人は、性交したいというような生々しい性欲を持つのかなど)。これらについては、本書に詳しく書かれているし、自閉症の人の性について滝川さんによる解説もある。


もう一つは「寝屋川事件」と呼ばれるもので、2005年に起きている。当時17歳の少年が自分が卒業した小学校に元担任を訪ねて来校し、対応に出た初対面の男性教師を背後から包丁で刺すという、これもショッキングな殺人事件であった。少年は逮捕後に精神鑑定を受け、広汎性発達障害と診断される、最終的に懲役15年の判決が下される。本書によると、この事件でも「性」の問題が出てくるという。この少年はある女性に恋心を抱き何度か交際を申し込むのだが交際を断られている。この恋をあきらめるという意味だったのか、少年はこの女性のメールアドレスや写真を自分のパソコンから削除する。これが事件の二日前の二月十二日。事件はバレンタインデーの日に起きている。


念のために言っておくと、著者らは、失恋で自暴自棄になったことが直接的な原因となったというような単純な解釈をしているわけではない。この事件についてのお二人の著者の解釈の当否を言い当てることは私などにはできないが、ぐっと考えさせられる内容になっているので是非直接本書に当たってみていただきたい。とにかく、二つの事件ともに、ちょっとした巡り合わせがあれば、二人の犠牲を止めることができたのではないかと思うと非常に切なくてならない。


長くなってしまうが、この章では、東京都日野市の養護学校での性教育をめぐって裁判にまで発展した「‪七生養護学校事件‬」も取り上げられている(本書では「七尾」と表記されているが誤植と思われる)。これも当時は非常に話題になったので覚えておられる方も多いのではないだろうか。都立七生養護学校で行われいた性教育に対して一部の都議会議員が不適切であると断じて抗議をして、教育委員会が校長を降格させるなどした事件である(元校長は処分の不当性を主張し裁判となり処分取り消しの判決が確定している。また、元教員および生徒の保護者は、都教委・都議3名・産経新聞社に対して精神的苦痛を受けたとして訴訟をおこし、都議三名と都教育委員会に210万円の支払いを命じる判決が下されている)。この事件についてはネットでもたくさんの情報が載せられているので、本書とあわせて参照していただきたいが、個人的には本書の中での滝川さんの次のような指摘にはっとさせられるような思いだった。

七尾福祉園は定員三○◯人規模の大変に大きな入所施設で、そのうちの約一五〇名、入所者の半数が子どもでした。一五〇名もの発達障害をもつ子どもたちが、家庭ではなく、郊外におかれた大規模な施設で集団生活をしている。これはいったいどういうことか。なぜこのような状況が東京都で生み出されているのか。都の議員なら、まずそこを追求しなければなならないのに。


第四章ではこうしたトピックについてその背景が簡潔に解説されていると同時に、章の後半は滝川さんによるフロイトの発達論のミニ講義のようになっていて非常に勉強になる。



順不同になるが、第三章では、アンナ・フロイト、ハーロウ、ボウルヴィらの研究の紹介も含めて、こどもと養育者との関係がこどもの精神形成に及ぼす影響について簡潔にまとめられていて、この章も非常に勉強になった(というか、もっと勉強してみたくなった)。またこの第三章では、こどもの精神発達の阻害要因としてチャイルド・アビューズ(虐待)の影響について触れられている。虐待との絡みで、「しつけ」が子どもの精神形成に及ぼす影響が述べられていて非常に面白かった。詳細は本書に譲るが、結論だけ言うと、しつけは子どもが「意志」の力を培うのに不可欠であり、その意味で単に社会規範を知るということに留まらず、精神発達上も極めて重要であるというのが滝川さんの主張である。しつけを名目にしたアビューズについて報道等で耳にすることが増えた気がするが、本書での議論でしつけとアビューズの本質的な違いを理解することができる。キーワードだけ抜き出すとすれば「能動性vs受動性」あるいは「自律vs他律」であろうか。親としては育児の際の指針にもなる。


新書のボリュームでなおかつインタビュー形式であるので一気に読める。その本を読むとさらに知りたいという意欲が湧いてくる本を良書とするならば、この本は間違いなく良書であると思う。


明治天皇、カフェオレ、麩饅頭

明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在 』(新潮新書)を読んだ。




まえがきで、次のように本書の概要が説明されている。

本書では、明治宮廷での、天皇、女官、侍従たちの何気ない一日の生活ぶりをじっくりと見てゆくことにします。(中略)戦争など非常時ではなく、むしろ、平凡な普段の生活の中にこそ、変えがたい宮廷のシステムの謎が潜んでいるはずです。特に「奥」と呼ばれる、女官たちが仕えるプライベートスペースでの過ごし方は、いろいろな面で重要です。日常の些細な物事の中に、皮膚感覚のそれゆえに変えがたい、宮廷問題の核心があるはずだと思うのです。


こうして、明治宮廷の一日が再現されていく。基本的に側近の回想録などに基づいている。新しく出てきた資料とかに基づいているわけではないので、皇室フリークの方々にとっては目新しい内容ではないのかもしれない。だが、私の場合で言うと、明治天皇については、富国強兵という時代背景とのセットで、妄想の翼をはためかせるだけだったので、勝手に厳格でカクカクシャキシャキされているのかと想像していた。しかし、本書で明治天皇のパーソナリティーに触れた部分を読んでみて、随分とイメージが違っていて驚いた。




ということで、おもむろに表題の件に話題を移しますが、明治天皇がカフェオレとパンを食べていたという話はたぶん割と有名で、私も中学か高校の歴史の授業かなにかで聞いたような記憶があります。しかし、本書では、さらに一歩踏み込んで(?)明治天皇の衝撃の朝食メニューが紹介されている。これは元側近による座談会から引用されているので孫引きになってしまって申し訳ないですがびっくらこいたので引用しておきます。

朝のお食前に差上げるコーヒーは一合入りが二本で黒い色をしていましたが、牛乳が少し入った色をしていました。それを召し上がるのはパンではなくて、生の麩でした。水っぽい餡が入っていました。


まさかのカフェオレ&麩饅頭。東進ハイスクールの林先生なら「なに飲むの? お茶でしょ!」と突っ込んでしまいそうです。さまーずの三村さんなら「カフェオレ好きかよ!」とツッコムところでしょうか。まあとにかくカフェオレがお好きだったようです。それから甘いものも。ただ、このカフェオレ&麩饅頭説に対して、従来からのカフェオレ&パン説も根強いらしく、どちらがどのくらいの頻度だったかは分からないようです。


また、明治天皇の食事中の服装も紹介されているが、ものすごくリラックスした様子で驚きました。もちろんプライベートな場での話ですが。正直、そのあたりのおっさんと変わらない格好に衝撃を受けました。そのあたりのおっさんと言っても地域差、年齢差、個人差などがあるのは承知しているので、気になる方は明治天皇の朝食時の格好が、あなたのまわりのどのおっさんに近いのか本書で確かめられると良いかと思います。


それから、本書を読んだことで皇后美子にも非常に興味がわきました。皇后美子は、皇后として初めて西洋式のメイクを取り入れた方ということになるのですが、伝統的な化粧法(舞妓さんのそれですね)から西洋式メイクに切り替えた日付けまでわかっているんですね。明治何年くらいのことか想像つきますでしょうか。皇后美子に関しては、喫煙のエピソードとかも凄く面白かったです。とにかく大変な愛煙家だったようです。


「家族」ということで言うと、明治天皇の愛犬についての話題もありました(ちなみに大正天皇のペットはご存知でしょうか。本書にはそれも出てきます。)。明治天皇の愛犬ボンと、天皇に仕えるお小姓(公家の子弟で構成されていて彼らには侍従職出仕という役職名がついている)との「攻防」はコメディみたいで腹を抱えて笑いました。また、お小姓たちのエピソードがそれ以外にもいくつか紹介されていて、彼らの睡魔との戦いとかも非常に微笑ましかったです。




以上で触れたような皇室のプライベートに対する野次馬的関心として面白いという面だけでなく、皇室というシステムを理解する上でも興味深い指摘があった。最終章の第七章は「様変わりする歴代皇室」と題されて、明治天皇以降の皇室の変化が概観されている。この中で著者は、皇室の結婚の分岐点として、今上天皇美智子皇后との結婚よりも、昭和天皇と皇后良子の結婚を強調している。これは、宮廷改革との結びつきから分析されているのですが、非常に面白かったです。


また、昭和天皇が推進した宮廷の合理化が、結果的に、皇室の外部からの情報を遮断してしまう一因となったという指摘もあった。これは、具体的には、明治期には存在した「侍従詰所」の廃止と絡めて議論されている。この指摘が正しいとすれば、その後の歴史にも重大な影響を及ぼしたことになるが、こういった宮廷制度と政治との関わりが本格的に分析されているのであればちょっと勉強してみたいなと思ったがどうなんでしょう。ご存知の方がいらしたら教えてくださいませ。




本書全体を通じて、伝統の維持という視点が宮中の生活でいかに重視されているかが理解できる。天皇が風呂に入る手順とかを読むと、笑えるほどくつろげない入浴でびっくりする。とにかく前例、先例が重視されるのだ。しかし、その一方で、本書を読むと天皇自らの意向でルールがある意味で簡単に変えられているように見える部分もある。そしてなにより、明治以降、皇室においても急速な西洋化が進められたという事実がある。このあたりの力学がどのように決定されているのか、天皇個人の意向で変えられる部分と変えられない部分、その辺りのところをもう少し推し進めて分析していただけるように期待したいなどと思った。





これ以外にも本書を読むと以下のことが分かる。

  • 天皇の食事では、天皇が実際に食べる量よりも多めに盛り付けられているが、それはなぜか?
  • 大臣や将軍が明治天皇に拝謁する際、天皇は椅子に座らずに起立したままだったので、当然相手も終始起立していたという。ところが、例外的に椅子を賜った人物が三人いたそうだがそれは誰か?
  • 明治天皇が大好きだった質問というのがあって、侍従職出仕(公家の子弟で構成されるお小姓)などにたびたび問うたそうであるが、それはどんな質問だったか?
  • 明治初期には宮中に西洋料理のマナーを知る人物がいなかった。そのため明治天皇侍従職出仕であった西五辻文仲にマナーを習ってくるように命じたが、西五辻はどこで習ったか?
  • 天皇が女官の体力増進のために考案した緞通巻と呼ばれた運動があったそうだが、これはいかなるものか?(これはすごくユニークで面白い)
  • また、侍従や侍従武官にも天皇自ら考案した「間数」と呼ばれるゲームをさせたというが、これはどんなゲームだったか?
  • 天皇がお風呂に入る時には、天皇専用の風呂場(御湯殿)とは別の場所にある釜で湯を沸かしておいて、それを手桶で御湯殿の湯船まで運ぶという面倒なことをするという。このお湯を湯船まで運ぶのは誰の役目か? ヒントを出すと、この人達は猪瀬都知事の『ミカドの肖像』にも出てきます。ちなみに、運ばれてきたお湯を湯船に入れるのは別の役職の人というややこしさ。
  • 明治天皇の側室(権典侍)は基本的に世間からの注目を浴びることはなかったが、一度だけ一般の人々が衝撃を受けた「事件」があったというがそれはいつ起きたか? また、なぜそういう事態になったか?

ということでいろんな意味で面白かったです。新書なのですぐ読めます。

なぜ大どろぼうホッツェンプロッツは死なないのか?

この物語は自分のために書かれたに違いない。不思議とそんなふうに感じる作品がある。そう感じるかどうかというのは、面白い面白くないという感覚と必ずしも対応しているわけではなくて、例えば鴎外も漱石も面白いけれど、鴎外の作品を読んで自分のために書かれたというふうに感じることはまずない。これが漱石になると、自分のために書かれた感がかなり強くなる。これは読む時の年齢によってもまた違う感覚があるのだろうし、もちろんこういう感覚というのは人それぞれにあって、それぞれに愛着のある作品というのがあるんだろうと思う。




オトフリート・プロイスラーさんが亡くなられた。
→「オトフリート・プロイスラー氏死去=ドイツ児童文学作家



小学生のとき、従兄弟の家で『大どろぼうホッツェンプロッツ』を読んだ時、これは自分のために書かれたんじゃないかと本気で思った。主人公のカスパールと仲良しのゼッペルは本当の友達のように思えたし、カスパールのおばあちゃんは本当のおぱあちゃんのような気がした。フランツ・ヨーゼフ・トリップさんのキモカワイイ挿絵の力もあってグイグイと物語の世界に引き込まれていった。


小学生の自分にはなんのことかよく分からない物も出てきてそこがまた魅力だった。ハンドルを回すと「五月は、ものみなあらたに」を演奏する手挽きコーヒーミル、というのが物語の冒頭に出てくるのですが(本文中では「コーヒーひき」となっている)、当時我が家にはコーヒーミルがなかったこともあって、父親に訊ねた記憶がある。なんでこんなつまらないことを覚えているかというと、後日、父が、コーヒーミルとはなにかを説明するためにわざわざ本物のコーヒーミルを購入してきたからだ。インターネット、なかったんですね、改めて思うと。


『大どろぼうホッツェンプロッツ』シリーズは、食べる場面の描写がまた素晴らしい。

カスパールとゼペットは、なまクリームのかかったプラムケーキを、おなかがひめいをあげるほど、どっさりたべました。

カスパールのおばあさんのうちでは、木曜日は、やきソーセージにザワークラウトーときまっていたからです。
 やきソーセージにザワークラウトは、ガスパールとゼッペルの大好物です。ですから、もしも、ふたりののぞみどおりに、ことがはこべるものなら、一週間は、七日とも木曜日にしたいところーあるいは、もっと欲をいえば、一週間をばいにして、十四日とも木曜日にしたいろことでした。

ホッツェンプロッツは、いろいろな薬味を小さくきりきざみ、それをフライパンに入れて、かきまぜました。ーすると、すぐにおいしそうなにおいが森の中にひろがっていきます。カスパールとゼペットは、口の中につばがわいてきました。
(中略)
「いただきます!」
 少年たちは、どろぼうのごちそうを指でたべるのです。そのために、いっそうおいしくおもいます。


それからホッツェンプロッツ・シリーズは3作品あるわけなんですが、「オチ」の部分が凄く好きで、ストーリーと関係ないので3つとも引用しちゃいます。

それで、ふたりは、たいへんしあわせでしたから、もうだれとも、かわりたくありませんでした。もちろん、コンスタンチノープルの皇帝とも、かわりたくなかったのです。

そして、いまは、どんな人ともかわりたくないほどーたとえジェットコースターの無料パスをとってくれるといっても、かわりたくないほど、しあわせでした。

そして、ふたりは、だれともかわりたくないほどーじぶんじしんとさえもかわりたくないほど、たいそうしあわせでした。

このなんか同じ調子を繰り返していく感じが凄く好きで、考えてみると自分が文章を書くときももの凄い影響されているなと感じます。


今は、自分の子供が『ホッツェンプロッツ』を好きになっていて、それはなんか不思議な感覚ですけど、やっぱり凄く嬉しいですね。「ホッツェンプロッツ」とか「ディンペルモーザー」とかかなり言いにくそうですけど。ていうか言えてないですけど。


今回プロイスラーさんの訃報に接しても、全然実感がわかないですね。でもとりあえず今は「ありがとうございました」って言いたいと思います。寂しいですね。なんだかホッツェンプロッツのように「ふたたびあらわれ」たり「みたびあらわれ」たりするような気もしています。



人はいかにして罪と向き合うのか?

今年も細々と読んだ本の感想などを書き連ねてきましたが、今年最後は『ライファーズ 罪に向きあう』という本について書きたいと思います。個人的にはこの一年で最も感銘を受けたのがこの本でした。




タイトルにある「ライファーズ」というのは耳慣れない言葉だと思いますが、日本語では終身刑もしくは無期刑受刑者に相当する。殺人など凶悪な犯罪を犯して服役している人々である。本書はアメリカの刑務所で服役しているライファーズが、自分のこれまでの人生、犯した罪に徹底的に向き合い、人間性を回復し「生まれ変わる」姿を追ったドキュメントである。


著者は映像作家の坂上香さん。坂上さんは、「アミティ」という団体の活動を通じて「罪と向き合う人」を描く。「アミティ」は、アメリカの民間団体で、「名目上は薬物依存者を対象にしている」が、実際は「ありとあらゆる嗜癖問題を抱えた人々がいる」という。活動も多岐に渡っており、共同生活を基本とした社会復帰施設をはじめ、仮釈放者向けの施設や通所のプログラムなどがあるという。


アミティが行っているプログラムのベースとなるのはtherapeutic community (TC) という概念である。日本では治療共同体や回復共同体と訳される。

ある考え方や手法を使って、同じ類の問題や症状を抱える人たちの回復を援助する場のことだ。多くの場合、同じ問題や症状を共有する人々が語り合うことを通して互いに援助しあう、自助グループのスタイルをとる。


アミティが非常にユニークなのは、まずスタッフの多くが自身も元受刑者で「壮絶な過去」を背負っていることだ。餅は餅屋と言うと不謹慎に響くかもしれないが本書を読んでまさにこの言葉が当てはまる気がした。アミティではスタッフのことを「デモンストレーター」と呼ぶそうだが、彼らはまさに体現する者なのだ。同じような境遇から見事に立ち直った人たちだけが持つ説得力がアミティの活動を支えているようだ。


本書を読んで、個人的に最も衝撃を受けたのは、この言ってみれば一民間団体に過ぎないアミティが、出所後の復帰支援だけではなく、刑務所内で更生プログラムを展開しているという点だった。例えばアミティは、カルフォルニア州などの矯正局から委託されて、刑務所内での更生プログラムを実施している。つまり、刑務所内で受刑者による治療共同体=TCが築かれるということだ。


そしてこの刑務所内TCで不可欠な存在となっているのが前述のライファーズだという。ライファーズは服役期間が長いこともあり、刑務所内での影響力が大きい。アミティのプログラム参加歴も長くなる。そして研修等も受けて経験を積み、服役したままスタッフと同様のデモンストレーターになる者も出てくるというわけだ。そして自らの経験を活かして他の受刑者を導く。

彼らの変容を目の当たりにして、他の受刑者も変わりたいと思うようになる。積極的な参加、真の友情、本音を語ること、リスクを恐れず最も辛い事をさらけだすこと・・・。自らの姿勢を通して本音で語れる場を彼らが率先して創造している。ライファーズは身体を張って、進むべき道を指し示す道標になっていたのだ。


挫けそうになる仲間を励ますライファーズの言葉が紹介されているが、その一つ一つが非常に力強い。もちろん、「更生」に成功した事例を中心に取り上げているからということもあるのだろうけれども、人間は本当にここまで変われるものなのかと思えてくるような例が紹介されている。著者の坂上さんは、アミティへの取材の過程で、ライファーズのおかげで自分は立ち直れたという言葉を幾度となく耳にしたという。アミティの支援を受けた受刑者の再犯率は劇的に低いという。



こうしたアミティの「成功」を支えているのがアミティの理念なのかもしれない。本書はアミティの特徴を次のように指摘する

米国には、依存症者の治療を目的とした施設が数多く存在するが、アミティとそれらの大きな違いは、単に問題行動を止めるのではなく、人間的な成長を目指すところにあるといえる。そこに欠かせないのが、人とのつながりだ。


受刑者の多くは生まれ育った環境に問題を抱えている。彼らにとって「TCでの日常こそが、生まれて初めて体験する安全なホーム」ということになる。

アミティでは、ホームを、敬意、人間性、希望、ユーモアという四つの要素から成る場と定義している。彼らは刑務所という空間で寝食を共にしながら、それらを学び直し、実践していく。そこは、暴力や罪に向きあうスタート地点、といえるのかもしれない。

「暴力や罪に向きあうスタート地点」に導くというのは犯罪者を「甘やかし過ぎ」なのではないかと感じる人もいるかもしれない。犯した罪に見合った罰が与えられるべきという意見も分からなくはない。しかし、いったん服役してもいずれは社会に戻ってくるということを前提に考えたならば、刑務所に求められる機能のひとつにこの「暴力や罪に向きあうスタート地点」に導くということが求められて然るべきではないかと思う。本書に「被害者支援が先か、加害者支援が先か、と優先順位をつけるのではなく、被害者も加害者も、そして各々の家族や周囲も、ニーズのある誰もが長期的かつ継続的なサポートを受け、変容を遂げていける場が必要なのだと思う。」という指摘があった。確かに、加害者の改心を促すことも、被害者を慰撫することもできないのであれば、それはある意味では社会としての敗北を意味しているようにも思う。


本書では、修復的司法という概念をベースにした、被害者、加害者、コミュニティとの関係修復の試みなども紹介されている。そういう意味では本書は刑務所のエコロジーで完結したものなどではなく、犯罪が生まれるまでの道程から贖罪の過程を経て出所後の試練までも視野に入れたものであり、様々な立場の人の心を揺さぶる一冊なのではないかと思います。今日はクリスマス・イブ。ほとんどの日本人には関係ないわけでしょうけど、せっかくなので便乗して好きな人との距離をさらにもう一歩縮める日にすると同時に、立場の違う人との距離も一歩は無理なら半歩でもいいので縮まるように心がけてみてもバチは当たらないかもしれません。



良いクリスマスを。良いお年を。良い世界を。

先生がこどものためにできること。親が先生のためにできること。

『教えるな!―できる子に育てる5つの極意』 (NHK出版新書)を読んだ。



タイトルを見て、親がやいのやいの言わんでも子供が勝手にバリバリ勉強し始めて、もうお願いだから勉強やめてみたいな未来予想図を思い浮かべて先走ってニヤニヤしながら読み始めました。


確かに、家庭での子供との関わりについて書かれた部分も面白かったのですが、全体を通読してみて、学校の先生の指導の仕方や、学校と家庭との連携について書かれた部分が個人的には一番面白かったので少し紹介してみます。


まず著者の戸田さん(教師を長らくやられていた方のようです)は「考える力の基本となるのは、自由闊達な好奇心と問題意識」であり、それゆえに、授業においては「子どもの自由な発言を歓迎する雰囲気が大変大事」になると説きます。


本書では、授業での小学四年生のやんちゃな男の子の「突っ込み」をきっかけにして、アドリブで学習を深めていった先生の対応などが紹介されていました。ただ、もし私が先生で、生意気なやんちゃな男の子から途中でチャチャを入れられたら、思わずカッとしてその子の胸ぐらをつかんで「尻の穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わしたろかぁ」などと言ってしまいそうです。やはり本物の先生というのはやはり立派です。私が先生にならなかったことを日本人はもっとありがたく思った方がいいとも思いました。


さて、授業もブログも脱線が命ということで無理やり脱線してみましたが、話を元に戻しましょう。本書では、自由な雰囲気の授業こそ思考を発展的に伸ばす大事な要素なのだから、授業での「横槍」や「突っ込み」を歓迎しない先生はその姿勢を改めて、横槍脱線を歓迎しましょうと説きます。


この横槍脱線歓迎論については、なるほどなと思う一方で、一抹の不安がよぎったのも事実です。自分のこどもの授業参観などを見ていると、低学年の子などは残念ながら猿に毛が生えた程度の節度しか持ち合わせがありませんから、一度脱線すると歯止めがきかなくなって、はてなハイクのような状態になりかねないなと想像したわけです。


この脱線をうまく活用して授業を活気づけつつ学習を深めていくというのは一種の芸のような部分があるでしょうから、先生方の経験に依存する面が大きいと思うわけですが、そうした個々の先生の努力以外に、制度的に脱線をしやすくする方法はないのでしょうか。この点についても、本書の中にヒントがありました。以下に二点だけ紹介したいと思います。

  • 時間割を先生の裁量で柔軟にする

第三章の「押しつけるな!」で、小学校の時間割をフレキシブルにしてはどうかという提案がしてあって、これはなるほどなと思いました。

小学校では専科以外の科目は担任の先生がだいたい全部もちますから、時間割もいろいろ融通がつきます。たとえば中高学年になれば、時には、算数を二時間続けてやってもよいでしょう(と言っても休み時間はとって)。理科で実験するときなども、四五分ではたりないときもあるのではないでしょうか。


こういう感じで時間割に関して先生方の裁量を大きくして、学期単位くらいで学習進度の帳尻を合わせればいいということにすれば、その時々の生徒の反応を見つつ、ここぞというときに思い切って脱線してみることに対する心理的抵抗が小さくなるような気がしました。

  • 学校と親がざっくばらんに話し合う

第五章「断ちきるな! 学校、家庭、地域に広がる、つながる」では、学校と家庭との連携についても検討されていました。この章ではPTA活動について、先生側が主導権を取りすぎて、自主的な活動が形骸化している点、またPTAは教育内容には口出ししないという不文律があることが問題だと指摘します。確かに地元のPTA活動における学校と保護者の関係というのは、決して険悪なわけではないけれども、どこかよそよそしいというのは私も感じています。


本書では、先生側がむしろ、保護者に「学級運営の根幹に一緒に関わってもらう」ようにすべきと主張します。現状を鑑みるとこれはかなり過激な意見のような気もしましたが、言われてみると確かに親の側が先生にどういう指導を希望するのかという点はすごく大事なことであるにもかかわらず、それをざっくばらんに伝える機会って意外にないということにも気づかされました。なにか問題が生じたときだけ先生とコミュニケーションを取るのでは先生方も萎縮してしまうでしょうから、例えば「体罰はいかんけど、子供がわるさしたら、ガツンと叱ってください」とか事前に伝えておけば先生も毅然とした対応がとれるでしょう。


その他にも学校とPTAとの連携について具体的な提案がいくつかされていましたが、その中で特に、校長先生など学校側のトップと、各学級のPTA代表との連絡協議会を定期的に開催することが提案されていて面白いと思いました。そしてそれに関連して次のようにも指摘されていて芸が細かいなと感心しました。

PTA内のことに目を向ければ、役員と一般会員の間に温度差が生じる傾向がありますから、定期的に開く学校責任者と学級の役員の会には、希望者は誰でも参加できる方式がよいのではないかと思います。


PTAの活動というのも地域によって多様なのかもしれませんが、専業主婦モデルともいうべきシステムが残存していて、総会や連絡会が平日の昼間にあったりして、事実上一部の家庭しか参加できないようになっていたりもします(そういう人に役員などを押しつけてしまうという側面もあるんですけどね)。なるべく多くの家庭が参加できるように制度を整えて、先ほども触れたように、親の側も何か不満があるときだけ学校とコミュニケーションをとるという姿勢を改めて、例えば担任の先生の良い試みがあれば、先生本人には勿論のこと、校長先生や教頭先生にもその気持ちを伝えることが学校のあり方を変える第一歩として大事なのかなと感じました。



そして、本書にあった指摘で非常に印象に残ったのは、上述の活動はすべて校長先生の裁量で可能だよという点でした。実は現在の制度下でも、校長先生の決断ひとつで学級運営のあり方、ひいては学校のあり方というのは随分変わる可能性があるんだなと改めて思いました。


本書で展開される著者の主張のすべてに賛同するというわけではありませんでしたが、家庭での学習にとどまらず、学校のあり方や地域社会との連携まで話が展開されていて色々と考えさせられる一冊でした。著者が元々先生ということで全体的に先生に対する要求が厳しめかなと思いましたが、経験に基いて学校での教師の心得が説かれているので若い先生方向けなのかなとも思いました。