パスタを食べると皮肉な懐疑主義者になる?


岩波ジュニア新書の『パスタでたどるイタリア史』を読んだ。



著者は池上俊一さん。ブロフィール欄を見ると、ご専門は西洋中世・ルネサンス史で東大教授とある。さぞ華やかな人生を歩んでこられたのだろうと想像していたら本書のあとがきは次のように結ばれる:

 生まれてこの方、浮き浮きと心が華やぐことなどほとんどない、低調な人生を歩んで来た気もするが、日本全体、いや世界全体が重苦しい雰囲気に包まれた最近は、一層、物憂い気分である。


どうだろう。このネガティブなグルーブ感がなんとも言えない。こういう感じ好きです。


そして、この部分は次の文章で締めくくられる:

 本書を書き上げた今、読者の皆さんに、そして自分自身にも、こう呼び掛けたいー
「パスタでも食べて、ちょっと元気だそうよ!」


このささやかに元気が出る感じがなんとも言えない。大好き。きっとこの方良い人だと思う。東大の学生の意見を聞いてみたい。いや、万一聞かなきゃ良かったという結果になったら嫌だからやっぱり聞かない。


それはそれとして。この『パスタでたどるイタリア史』。まずジュニア新書ということもあって読みやすい。そして面白い。「イタ公がトマト、トマト言うてるけど、トマトがヨーロッパに入ってきたのは大航海時代以降やからねえ」みたいな話かと想像していたけどスケールが違う。扱う範囲は古代から現代まで。


古代ローマ時代には既に「パスタ」の原型が存在していた。にもかかわらず、ローマ帝国滅亡以後、ゲルマン人が支配する時代にはパスタは衰退する。なぜか。ゲルマンの食文化との関係からこのパスタの衰退を考察する部分は非常に興味深い。


また19世紀のイタリア統一の後、「イタリア人」を産みだす役割を果たしたのも料理であったという第四章「地方の名物パスタと国家形成」もとても面白かった。1861年に統一されるまで例えばナポリとヴェネツィアとは別の「国」のようなものだったということは世界史でも出てくる。例えば、「イタリア」内での言語の多様性については、フランスの小説家のスタンダールの逸話を思い出す。イタリア大好き人間だったというスタンダールは、自由主義者として政治の世界でも活躍しており、領事としてイタリアに滞在していたこともあったという。フランスでイタリア語の勉強をしてフィレンツェに到着してトスカーナ弁を聞いたとき、一言も理解できずアラビア人から話しかけられたと思ったという。この逸話がどこまで本当か分かりませんが、こうした言語の多様性を「イタリア語」として「統一」する役割を果たした人物として本書の第四章で登場するのが「イタリア料理の父」と称させるペッレグリーノ・アルトゥージさん。詳細は是非直接本書にあたっていただきたいのですが、152ページにある次のような記述を読むとちょっとワクワクするのではないでしょうか。

アルトゥージの料理本が生まれたのはまさにこの時期だったのですが、彼はなんと、料理を紹介する中で、ささやかな言語教育を組み込んだのでした。アルトゥージは、トスカーナ語、方言、専門語、卑語、女性言葉などを皆、「イタリア語」に移植して馴化させる、という道を選び、(統一)イタリア語と地方の方言の橋渡しの役割を果たそうとしたのです。



また第六章の「パスタの敵対者たち」も強烈。その中でも20世紀初頭の前衛芸術運動である「未来派」と呼ばれるグループの打倒パスタの動きは凄まじいものがあります。本書では未来派のリーダーであるマリネッティの「未来派料理宣言」なるものが引用してありますが、これが凄い。イタリア人はパスタなんか食べてるから「皮肉で感情的な典型的懐疑主義者」になってもうたんやでコラと堂々と主張しています。どうしちゃったのマリネッティさんという感じ。やっぱり「未来」とか言ってる人はやぱいのかも! とか、いらんこと言ってる場合じゃない。


とにかく古代から現代までのイタリアの歴史がパスタでひとつなぎに描かれるというのは読んでいてもなかなか快感でした。是非みなさんも読んでみてください。