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100万人で世界を征服する方法


『パックス・モンゴリカ  チンギス・ハンがつくった新世界』を読んだ。

パックス・モンゴリカ―チンギス・ハンがつくった新世界パックス・モンゴリカ―チンギス・ハンがつくった新世界
ジャック ウェザーフォード,Jack Weatherford,星川 淳,横堀 冨佐子

日本放送出版協会
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ガッチガチの陰謀論者ではなくとも、歴史において「本当にそんなことあったの?」と思わざるを得ない出来事というものがある。本書を読み終えて、チンギス・ハンによるモンゴル帝国の構築というのはその最たるものだという思いを強くした。もう一つ挙げるとすると、アポロが月に降り立ったことだよねガピーン。



チンギス・ハンというひとりの男の奇跡の物語がそこにはある。

p. 15
子ども時分は犬をこわがる泣き虫だった。弓と相撲は弟のほうが上手で、親分風を吹かせる異母兄にいじめられていた。


このひ弱な少年*1がいかにして世界に君臨するまでになったのか。



モンゴル民族の奇跡の物語がそこにはある。世界史で習うように、モンゴル帝国の版図はおそろしく広大である。広島大学じゃないよ。「こうだい」って読むんだ。現代の世界で考えると「チンギス・ハンの版図は三十か国、三十億人以上を擁する」という。

p. 17
これだけの偉業でもっとも驚異的な側面は、彼の配下のモンゴル民族が百万人前後に過ぎなかったことだ。(略)この百万人から彼が召集した軍隊は、兵員数にして十万人に満たなかった。


この小さな民族がいかにして世界を牛耳ったのか。

p. 22
モンゴル人は、技術面の飛躍的進展をなしとげたり、新しい宗教を打ち立てたりしたわけではないし、生み出した小説や戯曲も数少なく、世界に新しい作物や農業技術をもたらすこともなかった。彼ら自身の職人は、布も織れなければ、金属鋳造も陶器づくりもできず、パンの焼き方すら知らなかった。


この技術的にも文化的にもおよそ特筆すべきものを持たないとされる民族がいかにして「人類社会を一変」させることになったのか。本書はその秘密に迫っていく。


不思議な魅力を放つ本だった。著者は、アメリカの文化人類学者であるジャック・ウェザーフォードさん。序章を読んでまずこの人は正気なのだろうかと心配になった。チンギス・ハンについてはその実像を知るための手がかりが少ない。著者のウェザーフォードさんさん、チンギス・ハンにまつわる玉石混淆の資料の精度を検証するために「実際の事件が起こったと思われる現場と照合」したというのだ。「ああ、いろいろ訪ねて回ったのか」って最初は思ったんですけど、これ、ヨネスケ *2銚子市の佐々木さんのお宅に突撃して晩ご飯を略奪するんじゃないんですよ。モンゴルですよ。モンゴル。


それだけではない。「そこで起こった出来事を理解するには、正確な場所を探し出すだけでなく、それにふさわしい天候のもとでその場所を経験しなければならないことがわかった。私たちは一年の異なる季節に同じ場所を再訪するように努めた」というような記述がさらりと出てくる。渡辺篤*3 が横浜の青山さん宅にお邪魔してお宅を褒め殺すわけじゃないんですよ。モンゴルですよ。モンゴル。


彼はモンゴル人研究者とチームを作り5年間に渡るフィールド調査を行ったという。

 五年間で、私たちのチームは幅広い条件や状況に遭遇した。(略)摂氏三十八度から、---マイナス四十六度まで(ただし烈風による体感温度低下は勘定に入れない)、気温は八十度以上の開き。(略)車は冬の雪、春の泥、夏の砂にことごとくはまった。鉄砲水にさらわれてしまったものも一台ある。私たちのキャンプは、ときに風、ときに雪、ときに酒宴のどんちゃん騒ぎで潰れた。(略)二十一世紀開幕の数年は、ゾド[寒冷や雪害]による動物飢饉のきわめつけも体験した。周囲の馬やヤクが見るまに倒れて息絶え、夜には大小あらゆる動物たちが立ったまま凍りつくのだ。


この人は正気じゃないです。まっすぐに正気を失っています。「日本人の定義とはなにか?」みたいなあさっての方向に正気を失ってしまう人は困ったものですが、こういう正しい方向で正気を失った人は大切にしたいです。こういう人、大好きです。本書はこうしたフィールド調査で得られた知見を交えてチンギス・ハンの誕生からモンゴル帝国現代社会に及ぼした影響までを歴史小説のごとく描いている。素人の私から見てもちょっと想像の翼を広げ過ぎではないかと思わせるあたり「アメリカの堺屋太一」と呼ぶのがふさわしいのではないかと思わないわけではありません。「アメリカの落合信彦」とまで言うと単なる悪口になるので注意しましょう。


本書は三部構成で、第I部はチンギス・ハンの1162年の生誕から1206年のモンゴル帝国建設まで「彼の人生と性格を形づくったさまざまな力」が取り上げられている。第II部はチンギス・ハンの後継者たちの戦いが描かれ、第III部ではモンゴル帝国現代社会の政治的・商業的・軍事的構造に及ぼした影響について掘り下げられている。この本の味噌は、チンギス・ハンが「徹底した近代人」であったと評価し、その業績が現代社会にまで及んでいると主張する点にある。


詳細は本書に譲るとして、序章からひとつクイズを。チンギス・ハンは城砦や都市、城壁の建設を拒んだそうですが、著者のジャック・ウェザーフォードさんによると、ある耐久構造物は歴史上のどの支配者よりもたくさんつくったといいます。さて、その耐久構造物とはなんでしょうか?


答えは「橋」だそうです。

p 22-3
軍勢と物品のすばやい移動を図るために、何百という沢や川をまたぐ道路を整備したのだ。モンゴル人は、物品ばかりか発想や知識の新しい交換が進むよう、意識的に世界を開いた。モンゴル人はドイツの鉱夫たちを中国へ、中国の医師たちをペルシアへと連れ出した。文化の移転は、歴史を画するものから些細なものまで多岐にわたる。


われらが柄谷行人先生なら「おおっ交通だ!」と叫んで支持者の喝采とアンチの罵詈雑言を同時に浴びてカオスな空間を創出してくれそうです。それはともかくモンゴル帝国の拡大に伴う文化、技術、法制度のミクスチャーが現代社会にどのようにつながってくるのか本書を読んで整理しつつ、白鵬の応援に力を入れ直してみるのも良いのではないかと思います。



最後に。本書の冒頭には著者のジャック・ウェザーフォードからモンゴルの若者に向けたメッセージが掲げられている(この本の初版はモンゴル国内で刊行されている。つまりモンゴル人に向けて、モンゴル語で書かれた *4):

モンゴルの若者へ
あなた方の歴史を守るために、すすんで命を捧げたモンゴルの学者たちのことを、けっして忘れないでほしい。


1990年に民主化したモンゴルであるが、それ以前はソ連の衛星国として共産主義体制下にあった。その間、ソ連およびモンゴルの当局は、民族主義復活を怖れて、モンゴルの人々がチンギス・ハンの名を称揚する動きを厳しく弾圧した。モンゴル史の研究者に対する弾圧と、その弾圧をかいくぐって資料を守り、解読し、後世に伝えた研究者のエピソードも本書で紹介されている。


モンゴルの歴史を歪めたのはもちろんソ連だけではない。モンゴルの歴史は絶えず歪められてきたし今でも歪められ続けている。本書で紹介されている18世紀のヴォルテール、モンテスキュー、そして博物学者ビュホンなどの反アジア、反モンゴルの思想は目を覆いたくなる。また、本書では「森の生活」のヘンリー・ソローの日記の一節が紹介されているが、私にとっては意外なことに、ソローもまたひっくり返るほどの反アジア思想を露にしている。


こうした徹底した歪曲にも関わらず、死後数百年の時を経て、こうして未だに光を当てられ続けているというのもチンギス・ハンの奇跡と言えるのかもしれない。

*1:モンゴルだけに草食系とか言ってる場合じゃないんだ

*2:文章のリズムの問題で敬称を略しました。ヨネスケごめん。

*3:文章のリズムの問題で敬称を略しました。篤史ごめん。

*4:その後にアメリカで刊行されている。本書は英語版の邦訳である。