人の能力をつぶしてしまうということ

先日、ウイニーの開発者である金子勇さんが亡くなられた。恥ずかしい話だが、関連の記事をいくつか読んで、初めて知ったことが多かった。かなりの部分誤解していたことを思い知らされた。


下野新聞のサイトには、金子さんのインタビュー記事(2012年3月)が掲載されていて、そこでは金子さん自身が事件について次のように語っていてドキッとしてしまった。記事はこちら→「Winny 開発者・金子勇さん 「変な制約になっては、と、頑張ろうと思った

-当時の報道は?


「どちらかと言うと、マスコミ報道も警察から情報リークを受けて、世論を誘導するようなノリがあったので、あれは好きじゃなかった」


(中略)


-世論はどう見えた?


「初めはよく伝わっていない、と感じた。特に一般の人は何が起きているか分からない。『警察が捕まえたんだから、悪いんだろう』と、本質的なところが見えなくなった。当時パソコンは使われるようになっていたが、ネットワーク自体は一般化していなかった」


先にも触れたように、私の認識もまさにこのような感じであった。そして実は無罪になったということすらはっきりとは覚えていなかった。しかし、記事を読んでいただくと分かるけれども、そんな「冷たい」世間を皮肉るわけでも、激しい言葉を連ねるわけでもなく、むしろ淡々と当時を振り返っておられて逆に驚かされる。記事には屈託なく笑う金子さんの姿が残されていて非常に切ない。2004年に逮捕起訴されて、無罪確定が2011年12月。無罪確定からわずか一年半あまりでの死去ということになる。





ちょっと唐突と思われるかもしれないけれども、こういうニュースに接するたびにアントワーヌ・ラヴォアジエのことを想う。あの「質量保存の法則」のラヴォアジエだ。彼はフランス革命期に革命政府によって断頭台に送られている。革命政府に目をつけられたのは、彼が徴税請負人の仕事に携わっていたためである。徴税請負人というのは、当時の庶民からは「王の手先」とみなされていて、ひどく憎まれていたため処罰の対象となった。ラヴォアジエの場合、奥さんの父親が徴税請負人長官を務めていたということもあったのであろう、義父とともに革命政府によって逮捕され、コンコルド広場であっさりと処刑されている。


同時代を生きた偉大な数学者で、マリー・アントワネットの家庭教師もつとめたラグランジュは、彼の死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」と語ったという。


さて、こちらも今は亡きスティーブン・J・グールドの『マラケシュの贋化石』には、ラヴォアジエの最後の手紙が紹介されている。自らの死を悟った上で語られたたことばである。

私はもうずいぶん長く生きました。しかもとても幸せな人生だった。私の死はいくばくかの悲しみをもって記憶されるだろうし、おそらくは名声も残るものと思っています。これ以上のことを望めるでしょうか。私が巻き込まれた事件は、老齢に伴うやっかいごとから解放してくれるものとなるでしょう。私は、能力全開のまま死ぬのです。

何度読んでも圧倒されてしまう。しかし、「これ以上のことを望めるでしょうか」とは言っているが、「能力を出し切って」ではなく「能力全開」の状態で理不尽なかたちで命を断たれることはさぞかし無念であったろう。その才能が人並外れているだけになおさらであろう。






金子さんの場合にはどうだったのだろうか。30代半ばの最も脂ののった時期に事件に巻き込まれ、ようやく無罪が確定して、これからという時期だったのではないかと思うと気の毒でならない。マスコミや警察の発表を鵜呑みにして誤解し続け、間接的にではあるかもしれないけれども金子さんの足を引っ張る側にいたという事実も後味をより苦いものにしている。金子さんに対する償いにはならないけれども、恣意的な力でせっかくの才能がひねりつぶされてしまうことのないような世の中に、せめてそういう世の中になるようにしていきたい。誰もがその能力を存分に発揮できる社会に。選挙はそのためのひとつの手段でもある。