不条理を回収するのは誰なのか?


3月11日は朝から大事な打ち合わせが入っていたが、昼過ぎに問題がおおかた片付いた。ほっとしてやや脱力気味で、遅い昼食を摂っていると、東北で震度7の地震があったらしいと同僚が教えてくれた。


マグニチュード7の間違いだろうと思ってネットをのぞくと、確かに震度7と報じられていた。だがその段階で今伝えられているような規模での被害を想像することはなかった。まったく不合理ではあるのだが、阪神大震災のような規模の被害が自分が生きている間に再び起きるはずがないと決め込んでいた。


ほどなくして伝えられたいくつもの映像を目にしても、それがリアルな感覚をもたらすまでには相当な時間がかかった。浸水する仙台空港、防波堤を越える津波、炎上したまま流される家屋。どれを見ても現実に起きたことだとはなかなか思えなかった。





この剥き出しの不条理にどのように立ち向かえばよいのか? 不条理を天罰として回収しようとする動きもある。それは政治家の発言としては容認できるものではないし、愚かで幼稚なものと映るが、しかしそうした動きを侮ってはいけないと思う。その「幼稚さ」とは、原初的な力であり、普遍的な力を持っている。


神や天という概念は、不条理の回収をその主要な機能として持つ。ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』の中で次のように指摘している。

仏教、キリスト教、あるいはイスラムが、数千ものさまざまの社会構成体において数千年にわたって生き続けてきたこと、このことは、これらの宗教が、病い、不具、悲しみ、老い、死といった人間の苦しみの圧倒的重荷に対し、想像力に満ちた応答を行なってきたことを証明している。どうしてわたしは盲目に生まれたのか。どうしてわたしの親友が麻痺になったのか。どうしたわたしの娘が知恵遅れなのか。宗教はこれを説明しようとする。マルクス主義をふくめおよそすべての進化論的/進歩主義的思考様式の大きな弱点は、そういった問いに対し苛立たしい沈黙でしか答えないことにある。


近代の「進歩主義的思考」は「神」を殺した。不条理の回収機構を唾棄した。合理的精神において、不条理はあってはならないものであり、あってはならないはずの不条理を回収する機構など、これもまたあってはならないものだ。だが、われわれの生活から不条理が駆逐されたわけではない。


不条理が生活の前景に出現してくる時、宗教指導者のごとき政治指導者が出現する。不条理の回収を叫ぶカリスマの求心力によって、「想像の共同体」が一気に編成(再編)される。「津波で我欲を洗い流せ!」などと神官のごとき宗教的身振りをする政治指導者を選択することにはよくよく注意しなければならないと思う。






テレビでは行方不明の女性を捜す家族の様子が流れていた。奇跡的にその女性が乗っていた車が発見され、警察と消防が駆けつけて車内を捜索したがその女性は既に亡くなっていた。駆けつけて捜索してくれた警官に対して遺族がやっと絞り出した言葉は「有り難うございました」だった。


地震から数日後、避難所での通話が可能になり、遠方でひとり働く父親とようやく連絡が取れたという一家の姿があった。小学校高学年くらいの、見るからにしっかりとしたお姉さんが電話に出てお父さんの声を聞いた瞬間、緊張の糸が切れたのかわっと泣き出して言葉を継げなかった。それをみた妹が「お姉ちゃんが泣いたの初めて見た!」と無邪気に笑っていた。


子供と孫の安否が分からずひとりで避難所に残された老婆の姿もあった。「わたしなんかが生きていていいのか・・・」と言いながらあふれる涙を拭こうともしなかった。






こうした苦境に立つ人々が通常の生活に戻る手助けをするために資源配分の適切な優先順位をつけるのに「強いリーダーシップ」は必要ない。不条理のただなかで立ち尽くす人々の傍らで誰かがそっと寄り添うために、「強いリーダーシップ」は必要ない。適切な判断力を持ち、恣意的な切断を行わない人物こそが必要とされている。


この混乱の中で、都知事選をはじめ重要な選挙が続いていく。候補者の選択は難しいけれど、不必要なほどの一体感を醸成させるリスクは避けたい。不条理の回収を神官のごとき「カリスマ政治家」に仮託するのはあまりに危険だ。わたしたちは、真の意味の「政教分離」を意識しなければならない。今目の前にある不条理はわたしたちの手で回収しよう。


助けを必要としている人の声を聞くために今こそ頭を冷やそう。ナショナリズムの別名としての「想像の共同体」ではなく、ひらりと国籍や民族を飛び越えて、新しい想像の共同体を築こう。ネットのコミュニティでもなんでもいいのだから、不条理のただなかで立ち尽くす人々にそっと連帯の挨拶を送ろう。