『きよしこ』を読んだ

久しぶりに『きよしこ』を読んだ。吃音の少年の物語だ。



きよしこ (新潮文庫)
きよしこ (新潮文庫)
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重松 清
新潮社
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 うつむいて、ぼそぼそとした声で話せばいい。ひとの顔をまっすぐに見て話すなんて死ぬほど難しいことだと、ぼくは知っているから。
 ゆっくりと話してくれればいい。君の話す最初の言葉がどんなにつっかえても、ぼくはそれを、ぼくの心の扉を叩くノックの音だと思って、君のお話が始まるのをじっと待つことにするから。
 君が話したい相手の心の扉は、ときどき閉まっているかもしれない。
 でも、鍵は掛かっていない。鍵を掛けられた心なんて、どこにもない。ぼくはきよしこからそう教わって、いまも、そう信じている。


吃音についてはこんな記事を紹介していた→「吃音を取り巻く現状についての解説記事 Listen to the lessons of The King's Speech」
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『明治百年 もうひとつの1968』を読んだ

明治百年―もうひとつの1968
小野 俊太郎
青草書房
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1968年。明治維新から100年目。フランスの五月革命に代表される若者の叛乱が各国で起きていた。日本でも大学闘争が拡大し、東大では安田講堂などが学生等によってバリケード封鎖され、東大の卒業式は中止に追い込まれる。また、この年10月の国際反戦デーでは「東京の新宿駅に一万五千人以上の学生が集まり、その一部が駅を占拠して解放区としたせいで、二十二日の深夜0時過ぎに騒乱罪が適用」され、743人が逮捕されるに至った。いわゆる「新宿騒乱」である。こうした「事件」に代表されるように、60年代後半と言えば「政治闘争」の時代として記憶されている。


しかし、と著者は訴える。

あたり前だが、日本全国がどこでも均一な政治意識をもっているわけではない。(中略)エリート主義的な臭いの抜けない大学闘争の観点からでは、どうしても見方が偏ってしまう。では、それ以外の多くの場所では平凡な日常生活が繰り返されていたにすぎないのだろうか。国民は「情報弱者」の群れであったり、「一億総白痴」(大宅壮一)だったのかーいや、そうではあるまい。人々は、変化をもっと身近な出来事から感じていたのだ。


さらに著者が1968年に注目する理由はこれだけではない。少年マガジン誌で『あしたのジョー』の連載が始まり、『巨人の星』のアニメ版放映が始まり、3億円事件が起きた1968年に「今の状況とつながる重要なシステムの書き換えや新しい出来事が起きて」いたというのだ。それは霞が関ビルのオープンであり、自動券売機の配備であり、ポケベルの利用開始であり、郵便番号の導入であった。また、原子力発電の商業利用が承認されたのも1968年だという。それゆえ1968年における「社会の動きを作りだした背景を探」ることで、「過去を振り返って進むうえでの分岐点が間違っていたり、誤りを正せる瞬間を見つけることができるのならば、現在からでも過去の誤謬を修正できるかもしれない」と著者は本書のあとがきで述べている。


本書で様々な事件、事象が並べられ、順にそれを眺めていくことで、この年に何が起きていたのかを知識としてつかむことはできた。またそうした事象多様性から、当時の人々の意識の多様性が朧気ながらつかめるような部分もあった。しかしその一方で、私自身は1968年にはまだ誕生していないということもあり、肌感覚としてこの時代が理解できるわけではないな、などと思ったのだが、実はよくよく考えてみると、周囲の人々が何を考えているのかということは現在という同時代のことですら分かってないわということに気付いてショックを受けた。もっと言えば、他者の理解ができないということだけでなく、私自身が現在起きている様々な事象ーそれは安保法制や原発などの政治問題であったり、子育てや介護などの社会問題であったりと様々なのだがーに対してどういう態度をとるべきなのか決めかねている、というか決めかねているうちに事が進行するままに任せるという態度が常態化していることに気付いて戸惑ったり狼狽えたりしてしまった。

意識の高い人ならサラダは便座でつくりましょう

『かぜの科学 もっとも身近な病の生態』を読んだ。むちゃくちゃ面白かった。

かぜの科学―もっとも身近な病の生態
ジェニファー アッカーマン
早川書房
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著者のジェニファー・アッカーマンはアメリカのサイエンス・ライター。このブログでも以前紹介した『からだの一日』も彼女の作品だ。
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『からだの一日』は、「私自身の関心事と、読者の方々にも興味深いであろうと思われる話題に絞った。キスや抱擁からオーガニズム、マルチタスキングから記憶、トレーニングからストレス、午後の眠りから夜寝ているあいだに見る夢までを収めてある」と著者が述べる通り、人間の身体に関係するあらゆることの中から面白そうな話題をピックアップしているので、面白くて当たり前と言えるかもしれない。一方、『かぜの科学』のテーマは「風邪」だけ。風邪だけで本一冊必要かねとオラ正直思ってたんだが、これが面白い。「風邪」についての最新の知見(出版当時の)だけでなく、風邪研究の歴史やそれにまつわるトリヴィア満載で、研究者の苦闘もユーモラスなタッチで描かれている。またヴァージニア大学が行ったウイルス撃退用の鼻スプレーの薬効試験でアッカーマン自身が被験者になるというダチョウ倶楽部ばりの体当たり取材も敢行されていて、被験者たちがホテルに三日間缶詰にされたときの様子も描かれている。鼻スプレー開発版テラスハウスのような趣だろうか。どんな趣じゃい!


さて、一口に風邪の研究と言っても様々な切り口があるわけですが、その中でももっとも重要な分野の1つに、ウイルスや細菌などの病原体が、環境中のどういった場所に多く存在しているかに注目したものがあります。本書でもこの分野の研究がたくさん紹介されていて、いずれも非常に興味深いのですが、その中のアリゾナ大学の環境微生物学者チャールズ・ガーバの研究がとても面白かったのでさわりだけつまみ食いしてみたいと思います。ガーバらはアリゾナの一般家庭の台所とトイレでの細菌数(大腸菌など)を調べています。ここでは本書第2章の該当部分を引用しますが、これがなかなかの破壊力です。

一五ヵ所の家庭で黴菌の有無を調べると、ガーバは家の中でいちばんきれいな場所ー少なくとも細菌に関してだがーが便座で、いちばん汚い場所が台所のスポンジや排水口であることを見出した。「まな板はとても不潔です」と彼は述べる。「まな板には便座の二〇〇倍もの糞便性大腸菌[細菌]がいます。こうしたデータを見ると、家庭でサラダをつくるのにいちばん安全な場所は便座の上ということになりそうです」


細菌の分布に関するリテラシーが高まると、人気のレストランのメニューには「このサラダは、その調理過程においてまな板は一切使用されず、すべて便座の上で作られています」という但し書きが添えられるようになるだろう。科学万歳。わたしはこの本を読んだ直後から、台所で調理をするのを一切やめて、調理はすべてトイレで行い、排尿排便は台所で行うような生活様式に変えた。それ以来すべてが快適だ。ただし良い子は真似しないように。ちなみに、このガーバさんの研究はネットで公開されているので、興味のある方はそちらで確認できます→Rusin, Orosz-Coughlin, and Gerba (1998) Reduction of faecal coliform, coliform and heterotrophic plate count bacteria in the household kitchen and bathroom by disinfection with hypochlorite cleaners. J. Applied Microbiology 85, pp. 819–828.


上記の研究は、細菌を扱ったものなので、ウイルスによって引き起こされる風邪とは直接の関係はないわけですが、こうした地道な研究の積み重ねによって風邪ウイルスがどこに潜み、どのように伝播しているのかが明らかになっています。そうした研究史の中には、あのガイア仮説で有名なラブロックの研究も含まれているということでした。第二次世界大戦中に防空壕の混雑が伝染病の発生につながりかねないという懸念が生じ、イギリスの風邪研究機関は呼吸器系疾患の伝播経路を解明しようと試みたという。そこで、この研究に協力するように要請されたのがラブロックであったというのだ。風邪の伝播経路としてすぐに思いつくのはくしゃみや咳などによる、空気感染ないし飛沫感染ではないかと思うのですが(マスク!マスク!)、ラブロックはそれを疑う立場だった。つまり、風邪は主に、感染者から、感染者の触れる衣服、食物、トランプ、机、照明のスイッチなどを経由して別の人に伝播すると信じていた。ラブロックがその仮説を「証明」するために用いた方法がまた非常にユーモラスなもので、思わず笑ってしまった。興味のある方はこの部分も是非読んでみて欲しい。


どの伝播経路が重要であるかは、病原体の種類によってもちろん異なるわけですが、例えば風邪ウイルスの代表格であるライノウイルスについて言えば、ラブロックの仮説は正しかったと言えるようです。ライノウイルスは感染者が触れた机などの無生物表面で想像以上に長く生きながらえることができるという。そしてその汚染された机やスイッチを、元気で暢気な人が不用意に触り、その汚染された手を不用意に自らの眼や鼻に持ってくることでウイルスは新たな増殖場所を確保する。詳細は本書で確認して欲しいが、本書のメッセージの中で最も重要なもののひとつは、手は綺麗とは限らない、いやむしろ汚い、というかものすごく汚い、想像以上に汚い、ということだろう。


だが、手が汚くたって、風邪は手から体内に侵入するわけじゃないだろうと思われるかもしれない。その通り。あなたのその汚い手を眼や鼻にこすりつけなければ感染の確率は小さくなるだろう。しかし、本書のメッセージをもうひとつ挙げよと言われたならば、「ヒトは手で鼻や眼をいじってしまう動物だ」という教えではないだろうか。本書ではヒトがいかに頻繁に手で鼻や眼や口をいじるかという研究も紹介されている。被験者をじっと観察して何回鼻をほじったかなどをカウントしていくわけだ。世界中の研究者が各国人民の鼻ほじり状況を詳細に調べているのを知って体が震えるほど感動してしまった。対象となっているのは、ロンドンの地下鉄利用者、ヴァージニアの日曜学校に集う子どもたち、カルフォルニア大学の公共健康学部の学生、インド都市部の学生、内科医(!)などだ。日曜学校の子どもたちと医療関係者とで、どちらが鼻をほじるだろうか? あまりにおそろしくて、ここで結果を紹介する勇気はわたしにはない。ホイジンガは人間の本質を遊びの中に見出し、人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)」と規定したが、もしホイジンガが環境微生物学者であったならば、人間を「鼻をほじるヒト」と規定していたことだろう。


本書ではこれ以外にも、感染防止策についての具体的提言もある。また、数多くの風邪の治療についての評価も行っている。市販されているいわゆる総合感冒薬などは軒並みバッサバッサとぶった斬られているので、製薬会社の営業の人などが読むと頭痛がするかもしれないが、風邪というコモンな疾患なだけに、医療関係者でなくとも最低限の正確な知識を持っておくのは大事なことであろう。まあなにより面白い。


文庫版も出ている

かぜの科学:もっとも身近な病の生態 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
ジェニファー・アッカーマン
早川書房
売り上げランキング: 157,624


フィンランドの教育と政治参加

フィンランドはもう「学力」の先を行っている』という本を読んだ。


本書はフィンランドの教育制度と、著者がフィンランド現地で見学した教育の実践例をまとめたものだ。日本とのあまりの違いにびっくりしてしまったわけだが、全体を通読して痛感したのは、学校教育が人生、仕事、社会と切り離されることなく互いに補いながら一体のものとして機能しているということだ。文章にすると教育ってそういうものでしょというようにも思えちゃうかもしれないので、ひとつ例を挙げみる。本書の第二章はフィンランドの小学校教育がテーマになっているのだが、そこで出てくる「政治参加」の一例に衝撃を受けた。本書の著者がストロンベリ小学校というフィンランドの小学校を訪ねた際に校長先生の口から語られた事例である。以下に該当部分を引用する。

たとえば、ある公園に遊具がほしいということを子どもたちが考えつくと、クラスで決め、学校の生徒会に持ち込んで提案として作り直し、毎年5月には市議会の議場を借りて市内生徒会大会があり各校の提案を審議する。そこで決まれば実現する。子どもたちは、大人と同じ社会のプロセスを踏むことで、民主主義の仕組みを学んでいくのだ。これが、子ども参加ということなのだと、校長は説明していた。


少し補足すると、この小学校はフレネ教育の実践を目指して設立されており、そういう意味では、必ずしもフィンランドの教育の典型例を示すものではないのかもしれない。しかし、引用文中に「市内生徒会大会」とあるので、程度の差こそあれ他の小学校でも類似のプロセスを踏ませているのだろうと思われる。シェー、スゴイな、小学生のときからここまでやるんだと感心してしまった。


本書を読んだ後、日本の学習指導要綱にもざっと目を通してみたのだが、実は日本の学習指導要綱でも、政治参加の重要性について理解させるという主旨の記述が存在する(中学の社会の学習指導要綱には「政治参加」という単語が9回も出てくる)。そして日本でも「議会制民主主義の仕組み」とかはもちろん習うわけだが、それが実際の政治との関わりにつながっていないのが現状であろう。「政治参加」というのは本書のメインテーマでは必ずしもないのだが、本書では、フィンランドの教育の特徴を「コンピテンス・ベースの教育」であると謳っている。これは学校内で閉じた知識の習得ではなく、実社会で実践可能な知識・技能の習得を重視する教育というようなことであろう。そう考えると、先に引用した小学生の「政治参加」の例は、「コンピテンス・ベースの教育」を象徴していると言えるのかもしれない。もちろん民主主義の理念や仕組みを学ぶことが無意味だとは言わないが、実際に参加してなんぼの世界だよと教えこむためには、日本も少なくともこうした点については積極的にフィンランドの取り組みを真似して取り入れていくべきなのではと思う。


今回は偏った紹介になってしまったが、本書の目次は以下のとおり。
第1章 グローバル競争のなかの教育制度
第2章 小学校から、もの作りの授業
第3章 中学校のもの作り
第4章 専門学校の取り組み
第5章 専門学校OMNIAの取り組み
第6章 専門職大学(AMK)
第7章 普通科高校から総合大学へ
第8章 フィンランドの職業教育の歴史と展望


小学生から成人の教育までひととおり網羅してある。簡単な歴史的経緯も解説してある。一番感心したのは、フィンランドという国が教育制度をフル活用して、社会の網の目からこぼれ落ちていきそうな人たちを、あの手この手で繋ぎとめることに十分なコストをかけていることだった。統一テストの点数など目先の「学力」に拘って学校教育の良し悪しを判定し続けるならば、日本の地盤沈下は不可避であるように思えてならない。また個人的には「生涯教育」というものがなんなのかいまひとつピンとこないところがあったのだが、本書の第一章で、産業構造が急激に変化する現代社会の特性との関係で生涯教育が論じられていて、非常に勉強になった。本書の39ページには、大学の入学者に占める25才以上の人の割合の国際比較が提示されているが、その割合をみると日本の低さが際立っている。実際に働く経験から出てくる興味や関心に基いてもう一度学校に戻って学び直し、そこで獲得した技能や知識を働く場で活かすというサイクルの構築という面でも日本が立ち遅れていることが示唆される。本書を読んで、なんでもかんでもフィンランド最高と言うつもりはないのだが、自分の子供の教育のことで色々と迷っている真っ最中でもあり非常に刺激を受けた。

楽聖ベートーヴェンと天才クズ野郎ベートホーフェン



ご無沙汰しております。こちら4年に1度だけ亢進する読書ブログです。今回は『ベートーヴェンベートホーフェン 神話の終り』を読みましたので紹介したいと思います。さて、悪趣味ではありますが、こんな問いに答えられるでしょうか。「モーツァルトの葬儀とベートーヴェンの葬儀では、どちらの参列者が多かったか?」 本書の第一章にはモーツァルトベートホーフェンというふたりの天才の葬儀の場面が描かれていますが、そのあまりの違いに驚かされる。びっくりぽんや。


なんでもないです。


本書によると、モーツァルトの葬儀はウィーンのシュテファン大聖堂の一隅で行われた。親族のみが参列した簡素なもので、葬儀が終わると遺体は聖マルクス墓地に向かったが、遺族は誰も付き添わなかったという。一方、ベートホーフェンの棺側に付き添った人の中にはシューベルトチェルニー、フンメルら当時の著名な音楽家がおり、八人もの楽長クラスの音楽家が棺をかついだという。また最後に墓地で読まれた弔辞はウィーン生まれの劇作家グリルパルツァーが書いたものだった。一説には、ベートーヴェンの葬儀に2万人もの人が集まったとも言われており「国葬」級の盛儀であったという。


モーツァルトが亡くなったのは1791年、ベートホーフェンのが亡くなったのは1827年。年数にするとわずか36年の違いでしかないが、年代を見比べると分かるように、ちょうどこの時期はヨーロッパで絶対王政が揺らぎ、市民のエネルギーが爆発し始めた時代と重なっている。モーツァルトがいかに天才と謳われていても、18世紀末のその死が旧体制下の一楽士の死に過ぎなかったのに対して、ベートーヴェンはドイツ精神を代表する「偉大な芸術家」としての死を迎えることになったのである。


本書によると、ベートーヴェンは1814年の"戦争交響曲"によって「一夜にして爆発的な名声を獲得して社交界の花形」となったという。しかし本書の著者に言わせるとそれは「悲しい名声であった」という。

一生を愚直で真摯に"芸術"と格闘した男が得た成功報酬はこの男の最低の作品、劇画のような"戦争交響曲"のもたらしたものだった。ウェリントン将軍の率いるイギリス軍がスペインのビトーリアでフランス軍を撃破した戦争の模写音楽(中略)は勝利に酔っぱらった各国代表の貴顕の人たちの耳には稀代の名曲として響いた。おかげでベートホーフェンはピエロのような"時の人"となった。


戦争交響曲ベートーヴェンの最低の作品だったかどうかは私には分からないが、とにかくこの「成功」によって彼の名は市民の間にも知れわたるようになる。これが葬儀の際の2万人の参列者(著者によると「野次馬」)につながるのだ。こうした時代背景によって、楽聖ベートーヴェンという神話(難聴という困難にもめげず、強靭な意志の力で愚直に真の芸術を追求した偉大な愛国的音楽家云々)が作り上げられていったという。


本書は、こうして形成された「ベートーヴェン神話」を解体して等身大のベートーヴェンを描こうとしている。いわゆるこの「ベートーヴェン神話」の虚構性については、断片的な形ではあるが、私も何度か耳にしたことがあった。皆さんの小学校の音楽の授業でも、ベートーヴェンの第九をみんなで聴いた後で、音楽の先生の声がやおら小さくなったかと思うと「いや、このベートーヴェンという人なんだけれども、実はね・・・」と語り出したという経験があるのではないだろうか。しかし、本書を読むと、この等身大のベートーヴェンのあまりのクズっぷりに腰を抜かしてしまう。本書の第6章には「愚行」という豪速球な章題がついているのだが、この章を読み進めていくうちに、3回ほど声を出して「嘘だろ!」と言ってしまったよ。ゲスの極みだ。育休泥棒だ。


なんでもないです。


この第6章ではベートーヴェンと彼の甥のカール君との関係が描かれている。私が子どもの時に読んだベートーヴェンの伝記では、このカール君こそがベートーヴェン先生の音楽道への邁進を妨げるクズ野郎として描写されていて、わたしはそれを信じて疑わなかったのですが、本書を読み終わった今、このカール君に心からの謝罪をしたい。カール君、君は天才ではなかったけれども決してクズではなかったんだね。天才だけどクズ野郎の伯父を持ってしまったのがあなたの悲劇でしたね。


全体の構成は以下の通り
第1章:盛名
第2章:有名人の肖像
第3章:ゲーテとベートフォーフェン
第4章:女たちの影
第5章:”不滅の恋人”
第6章:愚行
第7章:革命的な音楽家
第8章:栄冠
第9章:終章・フェニックスの歌
[巻末付録]"不滅の恋人"への手紙


第2章の「有名人の肖像」では、神格化されたベートーヴェンの肖像画と「等身大」のベートーヴェンの肖像画とが出てきますが、抱かれたい男No1と抱かれたくない男No1くらい違っていてビビります。


第3章ではゲーテとの関係が出てきますが、このゲーテ関係の逸話もほとんど解体されちゃってて清々しいです。


第4章と第5章はベートーヴェンの女性関係が扱われています。モーツァルトと違って真面目は真面目なので不倫とかはしたくなかったみたいなので、国会議員とかに向いてそうですが、なんせ人としてクズなのでちゃんとした恋人とかつくるのは難しいです。と纏めたら怒られそうですが、大体あっていると思います。


第6章は前述のとおり。清々しいクズです。


第7章からはベートーヴェンの音楽とその評価に焦点があてられていて、著者がもっとも力を入れている部分でしょうか。ロマン・ロランが「傑作の森」と評した中期の作品群がベートーヴェンの存命時にはほとんど評価されていなかった事実にまず驚かされますが、同時に、前述のとおり、後世の人々からは駄作と評されている戦争交響曲によって世間からの絶賛を浴びるという皮肉がベートーヴェンの身に降りかかります。このことでベートーヴェンは完全に「聴衆」を失ったというのが著者の主張です。では「聴衆」を失い「天涯孤独」となったベートーヴェンに残された聴き手とは誰なのかということが第9章で語られています。「人類の生んだ音楽の最高峰ともいうべき五曲の弦楽四重奏曲」と著者が評するベートーヴェンの「後期」の作品群は、彼が「聴衆」を失ったことによって生み出されたものだという。第6章までに出てくる人間としてのクズっぷりと、この音楽家としての天才性とのコントラストが鮮やかでした。正直音楽のことはよく分からないのですが、本書を読むと絶対にベートーヴェンをもう一度聴きなおしてみたくなると思います。

竹と隼人と男と女(本当はすごい竹取物語)

以前に以下の記事を書いた。non-rolling-dig.hatenadiary.jp


ここで紹介した『ズニ族の謎』は、鎌倉時代に30人程度の日本人が太平洋を渡り、アメリカ先住民のズニ族に加わり、その文化に変容をもたらしたという驚くべき仮説を検証した本である。この本については以前に書いた記事を参照していただければと思うが、私がこの本を読んだ時、その面白さに引き込まれはしたものの、それでもやはりあの広い広い太平洋を鎌倉時代に渡った人が本当にいたのだろうかという点はやはりにわかには信じられないという感想を持っていました。



それがこの夏休みに、網野善彦さんと森浩一さんの対談をまとめた『この国のすがたと歴史』を読んでいたら、驚くべきことが語られていたのでログログしたいと思ったのでした。

この国のすがたと歴史 (朝日選書)
網野 善彦 森 浩一
朝日新聞社
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本書の第二章「列島をめぐる交流」に出てくるのが次のエピソードです。

網野 縄文時代からアメリカ大陸と交流があったという説がありますね。縄文時代までさかのぼるかどうかは別として、北太平洋回りで日本列島からアメリカ大陸に行くのは、意外にあっさりできるらしいのですよ。(中略)四国の新居浜の漁師が打瀬網の船で毎年、バンクーバーへ行っているという話が地元の新聞にでたのです。(中略)愛媛の方々が中心になって開いたシンポジウムで、愛媛出身の作家の村上貢さんがその話を紹介したところ、会場から手が上がって、「私の父がやっておりました」という老人が現れたのです。


この老人は、父君が太平洋横断を行っていて事故など起こしたことがないとも仰っていたようです。「打瀬網漁」で画像検索されるとウヘーこんな舟でほんとかなと信じがたいという気になると思いますが、実際に太平洋横断が行われていたようです。また、別の例として網野さんが挙げられていたのが、南米史を研究されている長男の鉄哉氏の話でした。それによると17世紀前半のペルーに20人の日本人がいたことを示す資料が存在するのだそうです。こうした事例をもとに網野さんは「縄文人だって行かなかったとはかぎりませんね」と鎌倉時代はおろか縄文時代の人々がアメリカ大陸に渡っていた可能性を指摘しておられました。


もちろんこれをもってズニ族の謎に決着が着くわけではないですし、源義経が海を渡ってチンギス・ハーンになったわけでもないですが、個人的には昔の人々の航海技術をかなり勝手に過小評価しちゃってたなと反省しました。縄文人版の太平洋ひとりぼっちみたいな状況が想像よりもかなり頻繁にあったと考えたほうが実情にあっているのかもしれません。ただこういうのは自分で経験したわけではないので、例えば南太平洋の海洋民の大移動の話とかを耳にしても、なかなか実感として理解できないという面がありますね。熟練した漁民は、上島さんがアツアツのおでんを口にするくらいの感覚で太平洋横断してたんでしょうか。分かりません。またこういう話が出てくると、聖徳太子は黒人だったとか、織田信長は実はポルトガル人だったとか、デープ・スペクターは越谷出身だとか、麻世とカイヤは実は仲良しとか、色々なトンデモ系が勢いづくという面もあるので実証を疎かにしていいわけではないですね。まあそれでもなお移動手段の乏しかった時代、広い世界を思い描き、時には危険を犯して遠い世界に旅をしていた人々がいるのだと思うと、グローバルだよおっかさんと現代人の専売特許のように叫ぶのも少し気恥ずかしい気がしてきました。


さて、この対談集では、これ以外にも古代から中世にかけての国内外での人の動き、物の動きのダイナミクスについて論じられています。そして人と物の移動の範囲の広さに改めて感動を覚えます。第二章の小見出しの一部を拾ってみると



「東アジアのなかの八丈島」
「隼人の移住」「隼人と竹文化」
「ブドウのきた道」
「地名からたどる集団の交流」
「交易民としてのアイヌ
奥州藤原氏の背景」


いずれも興味深い内容でしたが、個人的に一番興味をもったのが隼人の移住性と竹文化の話題でした。森さんによると、隼人はその移住性に特徴があり、この移住には国家の強制もあったが、自発的移住もあっただろうと述べられていました。大隅の隼人の例が挙げられていて、現在の新大阪付近に要となる移住地(大隅島!)があったと考えられているそうです。そして、そこから淀川をさかのぼった現在の京田辺市のあたりに移住して集落(大住村!)を形成していたことは正倉院文書の「隼人計帳」で確認できるそうで、そこの遺跡調査によると少なくとも五世紀には移住があったようです。この文脈で森さんが、『竹取物語』には隼人の月と竹の話が取り込まれているのではないかと述べられていて非常に驚きました。

竹取物語』は南山城で煮詰まってきたと、一部の国文学の先生はみているけれど、僕は一歩進めて、南山城のなかの隼人の地域で煮詰まってきた、竹の物語、月の物語につながっていると思います。そう考えたら、隼人にはこれといった文化がないどころか、日本で最初の物語をつくり上げる原動力になった人たちだといえるでしょう。

森さんは、男山丘陵は隼人の勢力範囲の北端だから電球で男山八幡の竹を使ったエジソンは隼人に感謝するべきキリ(少し意訳)とまで仰っていておもろおました。十数年前の本ですが、興味のある方は是非どうぞ。








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『アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか』を読んだ

ご無沙汰しております。読書日記を書いている場合ではない気もしますが、『アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか』が猛烈に面白かったので紹介しますだ。





Amazonの紹介文には「病名から脳科学・神経学をひもとく、ユニークなメディカルヒストリー」とある。本書で取り上げられているトピックには、「パーキンソン病」「アスペルガー症候群」「アルツハイマー病」などの有名な疾患もあれば、「ブローカ野」「ブロードマンの脳地図」など大学の脳科学の授業に出てくるようなトピックもあるし、はたまた舌を噛みそうなあまり耳にしたことのない病気も含まれている。目次は以下のとおり。本書を通読すると、「へぇー」とか「えっ!」とかおそらく百回くらいは言ってると思う。

はじめに 「ドラーイスマ症候群」がありえない理由
第1章 夕闇迫る頃、彼らがやってくる  シャルル・ボネ症候群
第2章 苦しい震え パーキンソン病
第3章 フィニアス・ゲージの死後の徘徊 
第4章 ケレスティヌスの予言 ブローカ野
第5章 ライデン瓶の火花  ジャクソンてんかん
第6章 シベリアのブランデー コルサコフ症候群
第7章 死ね、このバカ! ジル・ド・ラ・トゥーレット症候群
第8章 もつれた迷路  アルツハイマー
第9章 神経学のメルカトル ブロードマンの脳地図
第10章 狂気の大本 クレランボー症候群
第11章 分身にお茶を カプグラ症候群
第12章 小さな教授たち アスペルガー症候群
第13章 カルダーノ的な科学停止


本書の著者はオランダのグローニンゲン大学心理学史教授のダウエ・ドラーイスマ(Douwe Draaisma)。ベストセラーになった「なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学」の著者でもある。本書では13のトピックについて、その発見の歴史、命名の歴史を中心に手際よくまとめられていて飽きることがない。文章うまい。構成がいい。著者の専門は記憶の心理学のようですが、こういう人は専門以外でも何を書かせても面白くできると思う。おそらく『小指で鼻くそをほじる人々の7つの習慣』とかいう新書を書かせても700万部くらいはいくと思う。それくらいのレベル。例えば、第四章「ケレスティヌスの予言 ブローカ野」の書き出しはこんなかんじ。

コロンブスと同じく、「ブローカ野」の発見者は自分が何を発見したのか、いまひとつわかっていなかった。
(中略)
多くの神経学の教科書には、次のように書かれている。ブローカは言語障害と脳の左半球の特定の場所の損傷とのあいだの関係を発見し、「ブローカ野」および、それに関連した「ブローカ失語」の語源となった。
 だがこのような書き方は誤解を生む。ブローカ自身はまったく別のものを発見したと信じていたのである。二年後にようやく彼は自分が、日本ではなく新世界に足を踏み入れたことを知った。それはあまりうれしくない発見であった。


こうして一気に本題に引きずり込まれてもう後戻りできない。夏休みで暇している中高生たちは人生が永遠に続くような気でいるかもしれませんが、何があるかわからないのが人生です。今すぐに本屋か図書館に走って、是非本書を手にとって適当に2-3章読んでみてください。あなたの人生が変わるかもしれませんし、変わらないかもしれません。


それでは、最後に本書のトピックのひとつからクイズを出して終わりたいと思います。以下に本書の内容に則して、ある人物(仮に山田一郎さんと呼びます)の生涯を振り返りますが、この山田一郎さんとは一体誰でしょうか? 


時は1864年。一人の男がバイエルンで王位につき、別の男が同じくバイエルンヴュルツブルク近郊の小さな村で産声をあげた。前者は、かの有名な「バイエルンの狂王」ルートヴィヒ2世であり、後者が今回のクイズの主人公である山田一郎(仮名)である。


時は下って1886年バイエルン南部に位置するシュタルンベルク湖で二人の男が溺死体で発見される。この二人のうち「ルートヴィヒ2世」の名はすぐに出てくるのだが、もうひとりは誰だったか? いつもどうしても名前が出てこない。このすぐに名前を忘れられてしまう不運な男の名はベルンハルト・フォン・グッデン。ミュンヘンで研究所を主宰していた傑出した精神科医であった。


この謎の死を遂げたグッデンのもとで研究を続けていた若手研究者のひとりにフランツ・ニッスルという青年がいた。彼は「ニッスル染色」にその名を残すこととなる有能な研究者だったのだが、この1886年の大事件で尊敬する師を失い、しばらく研究ができなくなるほどのショックを受ける。そのため彼はしばしの休養を余儀なくされるのだが、1888年になってフランクフルトにあるてんかん病院で再起をはかることにした。そこで当時28歳のニッスルは、4歳年下の有能な神経病理学者と出会い、すぐに仲良くなり、生涯の親友となった。このニッスルの親友こそが山田一郎(仮名)である。


この山田一郎さんは1903年にミュンヘンの王立精神病院に移ります。実はここで彼のボスであったエミール・クレペリンこそが、山田一郎さんの名前をとある疾患の名(仮に山田病としておきましょう)に刻んだ張本人なのです。ちなみに、当時の最先端を走っていたこの研究室を、「レヴィ小体」に名を残すフリードリッヒ・ハインリヒ・レヴィ(リヒリヒしてる!)や、「クロイツフェルト・ヤコブ病」に名を残すハンス=ゲルハルト・クロイツフェルトとアルフォンス・ヤコブなどの名だたる研究者が訪れたそうです。


さらに時間が下って1912年に山田一郎はフリードリッヒ=ヴィルヘルム大学附属精神病院に院長兼教授として招かれます。これは「ウェルニッケ失語」などで有名なカール・ウェルニッケが20年近くにわたって君臨してきたポストであった。これが最後のヒント。さて、この山田一郎とは一体誰のことでしょうか? 答えは本書の中にあります。ちなみに、この章の本題は、この山田一郎がこの山田病を「発見」した経緯、山田一郎がこの「発見」について学会で報告した際の聴衆の反応、そしてこの疾患が「山田病」と呼ばれるようになった経緯などです。


なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学
ダウエ・ドラーイスマ
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