(追記あり)「近いうちに電気に税金をかけられるようになるでしょうね!」


追記(2015/3/28):この記事で『歴史でわかる科学入門』の記述を引用するかたちで紹介したファラデーの逸話ですが、実話ではなく創作であるということをid:machida77さんに教えていただきました。すっかり真に受けてしまい恥ずかしい限りです。machida77さん、ご指摘ありがとうございました。詳しくはmachida77さんのブログに解説があります↓d.hatena.ne.jp
(追記ここまで)


歴史でわかる科学入門 (ヒストリカル・スタディーズ08)
ウィリアム・F・バイナム
太田出版
売り上げランキング: 321,624


『歴史でわかる科学入門』を読んだ。本書の帯には「やさしい言葉で書かれた科学の物語」とある。「科学」が「科学」と呼ばれるはるか以前の古代から現代までの科学の流れが全40章、362ページでまとめられている。著者はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン名誉教授のウィリアム・F・バイナム先生。ところでユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンというのはユニバーシティなのかカレッジなのかそれが問題だ。専攻は医学史とある。


私のポンコツ人生でも一冊の本にまとめようとすればそれなりに大変だと思うのだが、なんと言ってもここでの相手は科学全体である。あれも書きたいこれも書きたい、よく考えたらあれも書くべきだしこれも書くべき、そう言えばあの人もいるしこの人もいるとかどんどん膨らんできそうなものだ。また自意識過剰なサイエンティストからは「俺のあの発見を書かないのはなぜだ」とか「STAPはあります」とか「あの論文本当は私がゴーストライターです」などなどのクレームが寄せられるのがあらかじめ予想されて心が折れてしまいそうなものだが、そこを乗り越えて出版にまでこぎつけたという点だけで充分に評価に値するのではないだろうか。そんな評価いらんか。


それはそれとして、この本が凄いのは、科学の「中身」だけでなく、その中身を明らかにした科学者についても手際よく触れられているからである。例えば第22章「力、場、磁気」は、ファラデーの電磁誘導の法則で知られるマイケル・ファラデーを中心に描かれている。この章では電磁気を発見したエールステッドからバトンを受けたファラデーが、それをマクスウェルに引き継ぐという大きな流れが描かれるのだが、その中で一般家庭に生まれたファラデーが、王立研究所のハンフリー・デイヴィーの助手となり、ついには科学史にその名前を永遠に刻まれる存在にまでなることにもバランスよく触れられている。そして発電機の発明者でもあるファラデーが政治家に電気の実用的な価値は何かと訊かれたときのファラデーの答えがこの記事の標題である。なかなかおもろいやないの。ちなみに、この章で最も印象に残ったシャレオツな表現は「ファラデーは数学を利用しなかった最後の偉大な物理学者だった」でした。


さて、夢中で一気に読み進めたこの本でしたが、読後に浮かんだ疑問をひとつだけ書き散らして終わりたいと思います。本書の第30章「原子の中へ」では、原子の構造に迫った19世紀終盤から20世紀にかけて活躍した物理学者の活躍が描かれている。その中にニュージーランド出身のアーネスト・ラザフォードの実験について説明されているのだが、その部分を少し引用してみる。

ラザフォードと同僚たちはきわめて薄い金属箔にアルファ線をぶつける実験をおこない、その結果を測定した。たいていの場合、アルファ粒子は金属箔を突き抜けたが、たまに跳ね返ってくることがあった。何が起きたのかと考えたときの、ラザフォードの驚きを想像してみてほしい。たとえて言うなら、一枚の紙に向かって重い大砲の弾を発射したつもりが、弾が自分のほうに跳ね返ってきたのである。アルファ粒子が、金属箔を構成する原子がきわめて高い密度になっている部分にぶち当たったためだった。この高密度の部分が原子の「核」だったのである。


この大砲の弾の比喩、読んだ直後はなるほどと感心してしまったのだが、よくよく考えると、なんかおかしいと思い始めた。なんでだろうか。この比喩は、実験の中身を全然説明していないのだ。そうではなくて、この実験でラザフォードがどれくらいびっくりしたのかを説明しているのだ。いいのかそれで。この本の役割は、直感的には理解が難しい実験の中身を、比喩なりなんなりで噛み砕いて解説することだろ。びっくりの度合いとか噛み砕かんでええわ!というイチャモンをつけてこの記事を終わります。とにかくおすすめの一冊です。以下に目次を載せておきます。

第1章 はじまり
第2章 針と数
第3章 原子と空虚
第4章 医学の父―ヒポクラテス
第5章 "知者たちのマエストロ"―アリストテレス
第6章 皇帝の侍医―ガレノス
第7章 イスラムの科学
第8章 暗黒を抜け出て
第9章 賢者の石を探し求めて
第10章 人体の解明
第11章 宇宙の中心はどこ?
第12章 斜塔と望遠鏡―ガリレオ
第13章 めぐりめぐる―ハーヴィー
第14章 知識は力なり―ベーコンとデカルト
第15章 "新しい化学"
第16章 上がった物はかならず……―ニュートン
第17章 ひらめきの火花
第18章 時計じかけの宇宙
第19章 世界に秩序を
第20章 空気と気体
第21章 物質をつくる小さな粒子
第22章 力、場、磁気
第23章 恐竜の発掘
第24章 地球の歴史
第25章 "地上最大のショウ"
第26章 生命の小さな箱
第27章 咳、くしゃみ、病気
第28章 エンジンとエネルギー
第29章 元素を表に
第30章 原子のなかへ
第31章 放射能
第32章 世界を変えた科学者―アインシュタイン
第33章 動く大陸
第34章 遺伝するものとは?
第35章 ヒトはどこから来たのか?
第36章 特効薬
第37章 構成単位
第38章 "生命の書"を解読する―ヒトゲノム計画
第39章 ビッグバン
第40章 デジタル時代の科学

癒し系ゆるふわ儒学のススメ

「寝床で読む『論語』−これが凡人の生きる道」を読んだ。


寝床で読む『論語』―これが凡人の生きる道 (ちくま新書)
山田 史生
筑摩書房
売り上げランキング: 617,685




本書の性格は思ったよりも複雑である。とりあえずは「古典のなかの古典」である「論語」を解説した本、と言えるだろう。「論語」とか「儒教」とかいう単語からわたしなどは何を連想するかというと、まずは寺子屋とかで幼い子どもたちが無理やり素読させられていて、ちょっと行儀が悪いだけで先生からどつき回されるみたいなイメージが浮かぶし(浮かばんか)、また論語が好きな人に限ってすぐに切腹しようとするみたいなイメージも根強くあり(ないか)、やや真面目すぎてとっつきにくい感じがしてしまうわけですが、本書の著者山田史生さんは、まずそこに異を唱えている。まず著者が「論語」についてどのように考えているかが、本書の冒頭部で述べられている。

論語』はまさしく「古典のなかの古典」である。で、わたしもそういうイメージで読みはじめたのだが、そんな堅苦しいもんじゃなくて、ほとんど人生論のノリで読めてしまった。押しも押されもしない儒教の祖であらせられる孔子さまも、おっかない大先生というよりは、えらく気さくな先輩におもえた。


そういうことで本書全体のトーンにも重苦しさはなく、おちゃらけた感じになっている。例えば「はじめに」では次のように書かれている。

 副題に「これが凡人の生きる道」と掲げているとおり、この本の中身はなにからなにまで凡庸である(だって凡人が書いたのだから)。あなたがもし凡人であれば、あなたの考えるようなことが書いてある(から、あえて読む必要はない)。あなたが非凡なひとであれば、読むに値しないたわごとが書いてある(から、もっと読む必要がない)。
 おお。この本はだれにとっても読む必要がないことを、わたしはもう見抜いてしまった(あまり洞察力があるのも考えものである)。ひょっとしたらわたしは凡人じゃないのかもしれない。


こういう調子なのでたしかに気楽に読み進めることができる。のだが、読み進めていくとそれだけの本ではないことに気づく。実はかなり野心的な本なのだ。二重三重にオブラートに包みながら、従来の論語解釈にかなり異を唱えている。例えば「先行其言而後従之」という部分の解釈。ここは従来(例えば金谷治訳版)は「先ずその言を行ない、而る後にこれに従う」と訓読されて、「まずその言おうとすることを実行してから、あとでものをいうことだ」と解釈されているらしい。つまり、「これを言いたい!」ということが何かあるんだとしても、まずそれについてべらべら語るのではなくて、行動でもってその言わんとする事を示しなさいということになる。しかしそれに対して著者は次のように述べる


わたしは「必ず行なえ。其の言は而る後に之に従う」と訓読したい。とりあえずやってみて、説明やら言い訳やらは、そのあとで考えよう、と。

つまり、きちんとした理由が思い浮かばなくても、とりあえずやってみたらいい。理由なんて後付けでついてくるんだから、というわけだ。わたしにはどちらの解釈が「正しい」のか判断がつかないが、随分とニュアンスが変わってくるのが分かるだろう。その他にも「わたしの解釈はすこしちがう。「文る」とは、とりつくろうことではなく、ミエを張ることじゃないだろうか。」(p. 117)とか、「孔子はそんな現実的な話をしているのかなあ。」(p. 183)とか、本書ではこういう例がいくつも出てきて面白い。



このように、なるほどそう言われてみると確かにそういう風にも読めるな、という意味での新鮮な驚きが本書にはある。しかし、本書はそれだけにとどまらない。先の事例のように「なるほどな」と感心する解釈もあるのだが、意訳が過ぎて、「ええっ!その解釈は無理筋でしょ」という事例も出てくるのだ。例えば、「けれども、わたしの好きな孔子は、そんな非情なことはいわない。」(p. 70)とか、「しかし軟弱なわたしとしては、そんな恐ろしい教えとしては読みたくない」(p. 153)とか。また、有名な「子曰く。吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従いて矩を踰えず。」という段についての解釈がそんな感じで面白かった。「もう孔子関係ないやん!」という仕上がりになっていてそれがまた面白かった。



さて、ここまでは論語の解釈に対する異議申立てなのだが、本書ではさらにそれが孔子批判にまで及んでくる部分もある(もちろん「孔子大好き」が基本的なスタンスなんだけど)。例えば第五章では「子曰く。性、相近し。習い、相遠し。子曰く。ただ上知と下愚とは移らず。」という部分が出てくるのだが、これについては次のような展開になる。

 お言葉を返すようだが、凡人の代表として、ここは是が非でも孔子に逆らっておこう。


孔子様も「もうほかの本読んでくれ!」という感じかも知れないが、書き進めていくうちにどんどん興に乗ってくる感じが出ていておすすめの一冊です。「論語」を改めて読みなおしてみたい方などにおすすめです。著者の山田史生さんはちくまプリマー新書でも「孔子」について書いておられるようです。




孔子はこう考えた (ちくまプリマー新書)
山田 史生
筑摩書房
売り上げランキング: 547,698

「現代最高の知性6人」の推薦図書オモロい

『知の逆転』を読んだ。

知の逆転 (NHK出版新書 395)
ジャレド・ダイアモンド ノーム・チョムスキー オリバー・サックス マービン・ミンスキー トム・レイトン ジェームズ・ワトソン
NHK出版
売り上げランキング: 1,887

これはサイエンス・ライターの吉成真由美さんが行ったインタビューをまとめたもの。インタビュイーは以下の6名。

  1. ジャレド・ダイアモンド(銃・鉄・病原菌なヒト)
  2. ノーマ・チョムスキーチョムスキーなヒト)
  3. オリバー・サックス(レナードの朝なヒト)
  4. マービン・ミンスキー(人工知能なヒト)
  5. トム・レイトン(コンテンツデリバリーネットワークなヒト)
  6. ジェームズ・ワトソン(DNAなヒト)


本の帯には「現代最高の知性6人」と紹介されていますが、「現代最高レベルの変態6人」の方が実態を反映していると思います(個人の想像です)。それぞれの著書を読んで想像してたイメージとだいぶ違う人から、ああやっぱりこんな感じの人なんだという人まで、本当に様々。著書は面白いけど、話をさせてみると意外に普通な、というかつまらない人とかもいます。インタビュー本なのでさらっと読めます。6名のインタビュイーの専門分野が全然違うので、内容も多岐にわたりますが、6名全員に共通の質問もあって、例えば推薦図書を教えて下さいというのがあるんですが、ここでもそれぞれの個性が出ていて面白かったです。なのでそこだけちょっと紹介します。



第1章はジャレド・ダイアモンド。推薦図書は以下の様なラインナップ。

なんとなくそれっぽい気がします。


第2章はノーマ・チョムスキー。「推薦図書は?」という問に対する答えが以下の引用。

よくそのように質問されるのですが、たいへんありがたいことではあるけれど、歯がゆくもある。つまり、どう答えていいかわからないからです。自分の子供や孫たちに対してさえ、そのようなリストを作れないくらいですから、ましてや私の知らない人に対しては、さらに難しくなります。一般回答というものはないわけです。各個人の興味、目的、コミットの度合い、熱意の度合いなど、千差万別ですから。
 一番いいのは、自分で探して、驚くようなこと、予想もしなかったような本を発見するということでしょう。リストを提供することは、その予想外の驚きや探し当てる喜びというものを、多少なりとも奪うことにもなる。自分で発見する喜びというのは、指示に従った場合よりも、はるかにエキサイティングで価値の高いものです。


真面目か!
でも仰っていることは分かる気がします。いい意味でバカ真面目。




第3章はオリバー・サックス。本書では、今は亡きフランシス・クリックが、サックスを見つけると隣に座らせて「ストーリーをきかせてくれ」とおねだりしていたというエピソードも紹介されていました。サックスの推薦図書は以下のとおり。こちらもそれっぽい感じですが、『チューリングの大聖堂』とかはやや意外な感じも。そもそもそれっぽいってなんだ。

不思議宇宙のトムキンス
ジョージ ガモフ ラッセル スタナード
白揚社
売り上げランキング: 36,022




第4章はマービン・ミンスキー。小説はどれも一緒だから読まないらしい! 読むのはもっぱらSF。でも子供の頃はSFや科学物をたくさん読んでいたそうで、よく読んでいたのが以下の人達の著作だそうです。



第5章はトム・レイトン。この方のことは存じ上げなかったのですが、すごく面白い人でした。推薦図書を問われた際の回答も面白かった

推薦図書ですか!? 数学の本です!(笑)私が読む本ですか? ジャンク小説です!!

不真面目か!
これにはインタビュアーの方も参ったのか、「誰か好きなSF作家はいますか?」と質問を変えていたのがさらに笑えました。その問いに対しては、アイザック・アシモフとクリストファー・バックリーの二名を挙げていました。クリストファー・バックリーさんという方はわたしは存じ上げませんでしたが、何作か映画化もされている有名な風刺小説作家だそうです。

ニコチン・ウォーズ (創元推理文庫)
クリストファー・バックリー
東京創元社
売り上げランキング: 643,059




第6章はジェームズ・ワトソン。居酒屋とかで一緒に飲むと色んな種類の笑いを取ってそうな感じの人。どんな感じや。このインタビューでも、いまだにロザリンド・フランクリンを一刀両断していて逆に清々しかったです。フランシス・クリックについて語る場面もあって「私はフランシスの謙虚でないところが気に入っていたんです。」という名言も残しています。謙虚でない人から見ても謙虚でないと見えたということでしょうか。キング・オブ・キングス的な。分かりません。推薦図書も『二重らせん』と『種の起源』の二冊ということで、完全にその場のノリで答えている感じが逆に清々しかったです。

「せっかちな野郎は支援の場から去れ!」

エドガー・H・シャインの『人を助けるとはどういうことか  本当の「協力関係」をつくる7つの原則』を読んだ。



かなり前になるが、司馬遼太郎だったか上岡龍太郎だったか忘れてしまったが、「アメリカの大学というのはものすごいプラグマティックで、小説の書き方を教える学科まであるんやけど、そんなもんてほんまに教えられるんかいな」みたいな話をしているのをなんかの本で読んだ記憶がある。今回読んだ『人を助けるとはどういうことか』は、人助けをテーマにしている。それこそ、そんなことを体系的に教えることなんか可能なんだろうか、もう助けてというのが読む前の印象だった。


目次は以下のとおり。

1 人を助けるとはどういうことか
2 経済と演劇―人間関係における究極のルール
3 成功する支援関係とは?
4 支援の種類
5 控えめな問いかけ―支援関係を築き、維持するための鍵
6 「問いかけ」を活用する
7 チームワークの本質とは?
8 支援するリーダーと組織というクライアント
9 支援関係における7つの原則とコツ


目次をみると分かるように、「支援」の話から「チームワーク」や「リーダーシップ」の話へと展開しており、おやっと思われるかもしれないが、読んでみると違和感なく一連の話としてつながっていることが分かる。というのも、著者のエドガー・H・シャインさんは、名前から素直に連想するとどこかの社員なのかと思ってしまうが、その正体は組織心理学、組織行動論の大家で、MITのスローン経営学大学院名誉教授ということで、「支援論」と「組織論」とは著者の長年のキャリアの中で構築されたものであるらしい。シャイン先生の経歴については、本書の監訳者解説で詳しく語られている(本書は全体で290ページ程度だが、なんと監訳者解説が40ページ近くもある)。


さて、MITスローンの先生が書いた本なので、朝三時半に起きて翌朝の四時まで働くエリートビジネスマン達が想定読者なのかなと思ってしまうのが人情というものだが、実際に読んでみるとそんなことはないことが分かる。まえがきで著者は次のように述べている

支援に関する一般理論は、あらゆる状況における効果的な支援と、効果的でない支援との違いを説明できなければ役に立たない。それには曲がり角で道を尋ねた人に方向を教えるといった、ごく単純な支援も含まれる。


確かにここで言われているように、昼近くにもぞもぞと起きだして、異物混入前に買いだめしていたペヤングをむしゃむしゃと食べたら、夕食直前までまたたっぷり昼寝をして、コンビニ弁当を食べながら深夜に数独をやっているような人たちにとっても有益な内容になっているのが本書の特徴であろう。本書で実際に出てくる事例としては、シャイン先生自身が経験した次のような「支援」が挙げられていた。あるとき、シャイン先生が自宅を出たところで、車を運転していた女性から「マサチューセッツ通りはどちらですか」と尋ねられたというものだ。私のような田舎者は真っ先に「そもそもマサチューセッツ通りってどこやねん!」と脊髄反射的に思ってしまったが、我慢して読み進めていくと、そこでのやりとりの中にやはり支援の本質が潜んでいることが分かるようになっているのだ。


また、本書の原題は『Helping: How to offer, give, and receive help』であり、支援する立場の人だけでなく、支援を受ける立場の人にとっても示唆に富んだ内容となっている。支援する人がいるということは、支援される人がいるということであるわけで、支援の質を高めるためには、支援する側の質を高めるという方法だけでなく、支援される側の質を高めるという道もあるということだ。本書の第4章「支援の種類」においては、「支援者が知らない五つのこと」という節に続いて、「クライアントが知らない五つのこと」という節も用意されており、支援を受ける側の心得も具体的にまとめられていて面白い。



本書は全体に非常に平易に書かれており、読んでみて内容を理解できないということはないと思う。なので本書の要約をここでする必要性を特に感じないのだが、それではあんまりさびしいので、頼まれもしないのにあえて本書のメッセージを自分なりにまとめるとすると「せっかちな野郎は支援の場から去れ!」ということに尽きると思う。「問題」が分からないうちに上から目線で「解答」を提示してしまう糞コンサルタントなどタンスの角にしたたか足の小指を打ちつけられてしまえと仰っているのだ。そんな下品な表現はいっさいないけど。さらに、もう一歩絞り込んで、本書において大事なキーワードを挙げなさいと言われたならば、「控えめ(humble)」という単語がトップ100には入るだろう。支援者が辛抱強く控えめな問いを繰り出し、クライアントとの信頼関係を築きながら、(クライアント自身も気付いていない)真の問題をあぶり出すことが、支援を成功させるのにいかに重要であるかということが、本書では一定の説得力を持って語られている。また、そうした支援関係を構築・維持する際の実践上のコツも、第5章、第6章などでかなり丁寧に提示してあり、支援についての一般的、概念的な解説だけでなく、日常生活での様々なシチュエーションですぐにでも役立つ内容となっている。


しかし、本書を読み終えて、なるほどと思わせるものが多々ある一方で、ちょっと待てよという疑問符もちらついてくる。果たして、チームの文化やメンバーの個性をよく理解しようとする「控えめ」なリーダーがいる組織こそが、世の中に革新をもたらすような大きな成果をあげているのだろうか? 天才的な糞野郎の一瞬のひらめきによって支えられる独裁的な組織こそが革新の担い手になるということはないのだろうか? つまり、支援する側と支援される側との満足度と、そこから生まれるパフォーマンスとの間には、どの程度厳密な関係があるのだろうかという点は疑問として残った。皆さんは本書を読んでみてどのように感じられるだろうか。

『スタンフォードの自分を変える教室』を読んだ

スタンフォードの自分を変える教室』を読んだ。

スタンフォードの自分を変える教室スタンフォードの自分を変える教室
ケリー・マクゴニガル,神崎 朗子

大和書房
売り上げランキング : 231

Amazonで詳しく見る by AZlink


この本のタイトルだけ見た時は、スタンフォードには創設以来伝わる20個の教訓というのがあって、スタンフォードの学生はそれを常に意識して勉強に励んでいて、だからスタンフォードの教室は朝四時でも満員御礼なんだけど、みんな貧乏だからかけそばを一杯だけ注文して、それを教室にいる全員でシェアするみたいな日々の中で、教室に神様が登場して「お前の頼んだかけそばは金のかけそばか?」みたいなこと言うので、「いえ私たちが頼んだのはただのかけそばです」みたいな返事をしたら、「君たちって凄い正直者じゃん」って神様がすごく感激して、それを見たスタンフォードの学生の人生感が超微妙に変わった的な話を想像していたけどそんなんじゃなかった。


この本は「意志の力」についての本だす。ダイエット記事には毎回あれほどのブクマが付くのになぜあれほどの決意で臨んだダイエットが早々と挫折してしまうのか、あるいは、英語学習記事には毎回あれほどのブクマが付くのに年始に誓いをたてた毎朝の英語学習計画が成人の日まで続いた試しがないのはなぜかという悩みに対する回答が科学的知見に基づいて提示してある。スタンフォード版のためしてガッテンと思ってもらえば良いのではないかと思う。


本書はスタンフォードの生涯教育プログラムの公開講座「意志力の科学」をもとにしている。「意志力」に関する「最も優れた科学的見解」を紹介するとともに、講座で実際に行っている「実践的なエクササイズ」(およびそのフィードバック)が提示されている。著者自身の言葉を借りると本書は次のような特徴を持っている。

行動変革に関する本の大半は(中略)読者に目標設定をすすめ、さらにその目標を達成するためにはどうすべきかを説いています。しかし、自分が変えたいと思っていることを自覚するだけで事足りるなら、誰もが新年に立てる目標はことごとく達成され、私の教室は空っぽになっているはずです。
 そうではなく、「やるべきことはよくわかっているはずなのに、なぜいつまでもやらないのか」ということを理解させてくれるような本はほとんど見当たりません。


読んでて、「へえっ本当かな?」って疑っちゃう内容もあるのですが、じっくり我が身を振り返ってみると「ああ確かに」と妙に納得してしまうところの多い本でした。面白かった箇所を、見出しだけピックアップしてみます。


  • 食べ物で「意志の保有量」が変わる(第2章)
  • 運動すれば脳が大きくなる(第2章)
  • 腹が減っていると危険を冒してしまう(第3章)
  • 「やることリスト」がやる気を奪う(第4章)
  • サラダを見るとジャンクフードを食べてしまう(第4章)
  • ドーパミンは「幸福感」をもたらさない(第5章)
  • 死亡事故を見たらロレックスが欲しくなる(第6章)
  • タバコの警告表示はなぜ「逆効果」なのか?(第6章)
  • 自分に厳しくても「意志力」は強くならない(第6章)
  • 10分ルールでタバコを減らす(第7章)
  • 脳は「目にした失敗」をまねたがる(第8章)
  • 落ち込んでいるときは誘惑に負けやすい(第8章)
  • 好印象をねらうほど不愉快なことを口走る(第9章)
  • ダイエットは体重を「増やす」行動(第9章)


私が一番面白かったのは第4章「罪のライセンス」でしょうか。上にも挙げましたがこの章にある「サラダを見るとジャンクフードを食べてしまう」という部分は、心理学の「モラル・ライセンシング」という概念で説明されていて非常に興味深い内容でした。人間て、やっぱりちゃんとできてなくておもしれーというのが率直な感想でございます。

『危険な宗教の見分け方』読んだ

『危険な宗教の見分け方』を読んだ。



本書は田原総一朗上祐史浩の対談をまとめたものである。上祐氏というと、現在30歳より上くらいの方であれば説明の必要もないくらいの存在だと思われるのだが、現在ではテレビなどでその姿を見かけることがないので若い方々の間では既に知名度が相当低くなっているのかもしれない。


上祐氏は1969年福岡県生まれ。早稲田大の附属高校である早稲田大学高等学院から早稲田大学、同大学院と進む。早稲田では理工学部で情報通信を専攻していたが、その一方で大学院時代の1986年に麻原との出会いを果たしている。その後、宇宙開発事業団に就職(これは私は知らなかった)するが、ほどなく退職してオウム真理教で出家する。オウム真理教では最高幹部のひとりとして、マスメディアにもたびたび登場していた。当時はマスコミからの質問にいろんな理屈をこねて回答するところから「ああ言えばこう言う」をもじって「ああ言えば上祐」などとというような言い方もされていたように記憶している。その後、サリン事件などを経てオウムの一連の凶悪事件が明らかにされる。上祐氏は(少なくとも法律的には)これらの凶悪事件には関与していないということになっているが、別の事件で偽証罪などで逮捕されて服役している。出所後にオウムの後身である「アレフ」の代表になるが、その後「オウム」から脱却。現在は自らが設立した「ひかりの輪」という団体で活動しているという。「ひかりの輪」というのは、上祐氏自身の定義では「宗教」ではなく「東西の思想哲学の勉強教室」だと言う。


本書では、上祐氏自身が、自らの生い立ちからオウムへの入信、そして数々の事件に対する彼なりの総括、麻原崇拝からの脱却、そして現在の活動に至るまでを、田原総一朗氏の質問に答える形で語っている。ひとつひとつの事実が正確に語られているのかどうか判定することは私にはもちろんできないわけだが、全体として、かなり率直に語られているのではないかという印象を持った。例えば、宇宙開発事業団に入った動機について語られた箇所。

上祐 当時の自分にとって宇宙開発というのは「科学」への憧れだけではなかった。自分の価値を最大限に活かせる分野だと考えたんです。つまり、宇宙開発に携わることは手段であって、目的は「自己の価値を最大化すること」だったんです。


田原 自己の価値を最大化?


上祐 自分を、なるべく重要な存在だと思うことができること。


これについては、最終章(第5章宗教やスピリチュアルとどうつきあうか)で語られる「危険な宗教の見分け方」とあわせて考えると興味深いと思う。上祐氏は自身の過去をふまえて「特定の神様や人を絶対視するほど、どこかで歪み、弊害や危険性が出てくる」と語る。そして、本来の仏教やヨガはそういったものとは異なると主張するとともに、次のように語る。

仏教やヨガにおいて最も大切なことは「我にとらわれない」ということだから、自分は多くの人間の一人で、自然の一部だという相対的な自己観が大切なんです。


ここでの上祐氏の発言の主旨は特定の個人を絶対化してはならないということなのだが、私にはひとつ疑問が生じてくる。「我にとらわれない」で「自然の一部」になるということはつまり自他の境界が曖昧になるということなのだろう。では、この「自他の境界が曖昧になった状態」という感覚が得られた時、その感覚というのは、自己が限りなく肥大化していき「世界」が自己で満たされているという感覚(おそらくこれは全能感に近い感覚だと想像するのだが)と、実際上区別できるものだろうか? 別の言い方で問うとすると、「世界」の中に自己が溶け込んでしまう感覚と、「世界」が自己で満たされる感覚とは、峻別可能なものなのだろうか、ということになるだろう。第五章ではこれからの社会のあるべき姿について上祐氏が語る部分もあるのだが、それともあわせて考えてみても上祐氏の思想について一抹の危うさを覚えたのも事実だった。それはもちろん「元オウムの人」だというバイアスが影響している可能性は否定できないのだが、これについては実際に読んで見た方の感想を是非とも聞いてみたいと思った。


それから印象的だったのは、上祐氏の語り口だった。これは昔から変わっていないと言えばそういうことなのかもしれないし、その善し悪しを断ずるつもりもないのだが、彼の発言に目を通していくと常にどこか他人事のような感じが拭えないのだ。例えば、サリン事件が起きる1995年の数年前から、上祐氏はロシアでの布教活動に軸足を移していたのだが、上祐氏がロシアに行かされたその理由について田原氏が問いただしている箇所がある。それに対して上祐氏は「それには二つの説」があるのだと語り出す。この二つの説の中身については直接本書に当たっていただきたいのだが、上祐氏の語り口というのは次のような感じなのだ。

どうなんでしょう。私は当時はひとつ目の説しか知りませんでした。二つ目の説はむしろ外部の人が言っていることで、ウィキペディアなどを今見ると、左遷説が中心になっています。

さて、本書はさっと読めてしまうくらいの分量なのだが、上記以外にも興味深い記述が多くあった。例えば、オウムの教団内部での人間関係について「当事者」ならではの証言が興味深かった。暗殺された村井秀夫と麻原との関係などは、不謹慎な言い方になるがコントのような趣があった。それ以外にも、田原氏が上祐氏に「キリストの復活についてどう思うか」と問う場面、オウムとダライ・ラマとの金銭的なつながりに関する証言、オウムを「ミニ大日本帝国」だと論じる場面などが印象に残った。


全体を読み終わってみてもやもやとした感覚が残るのは確かだが、カルト教団の中枢にいて、そこから脱却した(とされる)ひとりの人間の証言として面白かった。

さようなら波平さん

サザエさんの波平役をされていた永井一郎さんが亡くなられた。


サザエさん、うちの子供達も毎週楽しみにしていました。実は、奇しくもと言うべきか、昨日の放送では波平が童心に返るという内容の話になっていました。強面の波平が、お風呂でアヒルのおもちゃと遊ぶ姿を見て、そしてカツオ達に混じって野球で泥だらけになって帰宅する姿を見て、子供たちはおそらく今までも最も愉快に笑っていたと思います。


波平役は番組スタート時からということなので約半世紀に及ぶことになります。ちなみに、KDDIのClose upインタビューというコーナーでは

映画「スターウォーズ」日本語版制作時には、ヨーダの声役の候補に挙がったのか、ジョージ・ルーカス監督から「ナガイは英語は話せるのか?」と、出演を打診されたことがある。

とありました。→http://archive.is/awVLH



今回突然のお別れとなりとても寂しいです。今まで長きにわたって家族で楽しませてもらいました。本当に有難うございました。


朗読のススメ (新潮文庫)朗読のススメ (新潮文庫)
永井 一郎

新潮社
売り上げランキング : 654

Amazonで詳しく見る by AZlink