意識の高い人ならサラダは便座でつくりましょう

『かぜの科学 もっとも身近な病の生態』を読んだ。むちゃくちゃ面白かった。

かぜの科学―もっとも身近な病の生態
ジェニファー アッカーマン
早川書房
売り上げランキング: 442,479


著者のジェニファー・アッカーマンはアメリカのサイエンス・ライター。このブログでも以前紹介した『からだの一日』も彼女の作品だ。
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『からだの一日』は、「私自身の関心事と、読者の方々にも興味深いであろうと思われる話題に絞った。キスや抱擁からオーガニズム、マルチタスキングから記憶、トレーニングからストレス、午後の眠りから夜寝ているあいだに見る夢までを収めてある」と著者が述べる通り、人間の身体に関係するあらゆることの中から面白そうな話題をピックアップしているので、面白くて当たり前と言えるかもしれない。一方、『かぜの科学』のテーマは「風邪」だけ。風邪だけで本一冊必要かねとオラ正直思ってたんだが、これが面白い。「風邪」についての最新の知見(出版当時の)だけでなく、風邪研究の歴史やそれにまつわるトリヴィア満載で、研究者の苦闘もユーモラスなタッチで描かれている。またヴァージニア大学が行ったウイルス撃退用の鼻スプレーの薬効試験でアッカーマン自身が被験者になるというダチョウ倶楽部ばりの体当たり取材も敢行されていて、被験者たちがホテルに三日間缶詰にされたときの様子も描かれている。鼻スプレー開発版テラスハウスのような趣だろうか。どんな趣じゃい!


さて、一口に風邪の研究と言っても様々な切り口があるわけですが、その中でももっとも重要な分野の1つに、ウイルスや細菌などの病原体が、環境中のどういった場所に多く存在しているかに注目したものがあります。本書でもこの分野の研究がたくさん紹介されていて、いずれも非常に興味深いのですが、その中のアリゾナ大学の環境微生物学者チャールズ・ガーバの研究がとても面白かったのでさわりだけつまみ食いしてみたいと思います。ガーバらはアリゾナの一般家庭の台所とトイレでの細菌数(大腸菌など)を調べています。ここでは本書第2章の該当部分を引用しますが、これがなかなかの破壊力です。

一五ヵ所の家庭で黴菌の有無を調べると、ガーバは家の中でいちばんきれいな場所ー少なくとも細菌に関してだがーが便座で、いちばん汚い場所が台所のスポンジや排水口であることを見出した。「まな板はとても不潔です」と彼は述べる。「まな板には便座の二〇〇倍もの糞便性大腸菌[細菌]がいます。こうしたデータを見ると、家庭でサラダをつくるのにいちばん安全な場所は便座の上ということになりそうです」


細菌の分布に関するリテラシーが高まると、人気のレストランのメニューには「このサラダは、その調理過程においてまな板は一切使用されず、すべて便座の上で作られています」という但し書きが添えられるようになるだろう。科学万歳。わたしはこの本を読んだ直後から、台所で調理をするのを一切やめて、調理はすべてトイレで行い、排尿排便は台所で行うような生活様式に変えた。それ以来すべてが快適だ。ただし良い子は真似しないように。ちなみに、このガーバさんの研究はネットで公開されているので、興味のある方はそちらで確認できます→Rusin, Orosz-Coughlin, and Gerba (1998) Reduction of faecal coliform, coliform and heterotrophic plate count bacteria in the household kitchen and bathroom by disinfection with hypochlorite cleaners. J. Applied Microbiology 85, pp. 819–828.


上記の研究は、細菌を扱ったものなので、ウイルスによって引き起こされる風邪とは直接の関係はないわけですが、こうした地道な研究の積み重ねによって風邪ウイルスがどこに潜み、どのように伝播しているのかが明らかになっています。そうした研究史の中には、あのガイア仮説で有名なラブロックの研究も含まれているということでした。第二次世界大戦中に防空壕の混雑が伝染病の発生につながりかねないという懸念が生じ、イギリスの風邪研究機関は呼吸器系疾患の伝播経路を解明しようと試みたという。そこで、この研究に協力するように要請されたのがラブロックであったというのだ。風邪の伝播経路としてすぐに思いつくのはくしゃみや咳などによる、空気感染ないし飛沫感染ではないかと思うのですが(マスク!マスク!)、ラブロックはそれを疑う立場だった。つまり、風邪は主に、感染者から、感染者の触れる衣服、食物、トランプ、机、照明のスイッチなどを経由して別の人に伝播すると信じていた。ラブロックがその仮説を「証明」するために用いた方法がまた非常にユーモラスなもので、思わず笑ってしまった。興味のある方はこの部分も是非読んでみて欲しい。


どの伝播経路が重要であるかは、病原体の種類によってもちろん異なるわけですが、例えば風邪ウイルスの代表格であるライノウイルスについて言えば、ラブロックの仮説は正しかったと言えるようです。ライノウイルスは感染者が触れた机などの無生物表面で想像以上に長く生きながらえることができるという。そしてその汚染された机やスイッチを、元気で暢気な人が不用意に触り、その汚染された手を不用意に自らの眼や鼻に持ってくることでウイルスは新たな増殖場所を確保する。詳細は本書で確認して欲しいが、本書のメッセージの中で最も重要なもののひとつは、手は綺麗とは限らない、いやむしろ汚い、というかものすごく汚い、想像以上に汚い、ということだろう。


だが、手が汚くたって、風邪は手から体内に侵入するわけじゃないだろうと思われるかもしれない。その通り。あなたのその汚い手を眼や鼻にこすりつけなければ感染の確率は小さくなるだろう。しかし、本書のメッセージをもうひとつ挙げよと言われたならば、「ヒトは手で鼻や眼をいじってしまう動物だ」という教えではないだろうか。本書ではヒトがいかに頻繁に手で鼻や眼や口をいじるかという研究も紹介されている。被験者をじっと観察して何回鼻をほじったかなどをカウントしていくわけだ。世界中の研究者が各国人民の鼻ほじり状況を詳細に調べているのを知って体が震えるほど感動してしまった。対象となっているのは、ロンドンの地下鉄利用者、ヴァージニアの日曜学校に集う子どもたち、カルフォルニア大学の公共健康学部の学生、インド都市部の学生、内科医(!)などだ。日曜学校の子どもたちと医療関係者とで、どちらが鼻をほじるだろうか? あまりにおそろしくて、ここで結果を紹介する勇気はわたしにはない。ホイジンガは人間の本質を遊びの中に見出し、人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)」と規定したが、もしホイジンガが環境微生物学者であったならば、人間を「鼻をほじるヒト」と規定していたことだろう。


本書ではこれ以外にも、感染防止策についての具体的提言もある。また、数多くの風邪の治療についての評価も行っている。市販されているいわゆる総合感冒薬などは軒並みバッサバッサとぶった斬られているので、製薬会社の営業の人などが読むと頭痛がするかもしれないが、風邪というコモンな疾患なだけに、医療関係者でなくとも最低限の正確な知識を持っておくのは大事なことであろう。まあなにより面白い。


文庫版も出ている

かぜの科学:もっとも身近な病の生態 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
ジェニファー・アッカーマン
早川書房
売り上げランキング: 157,624