竹と隼人と男と女(本当はすごい竹取物語)

以前に以下の記事を書いた。non-rolling-dig.hatenadiary.jp


ここで紹介した『ズニ族の謎』は、鎌倉時代に30人程度の日本人が太平洋を渡り、アメリカ先住民のズニ族に加わり、その文化に変容をもたらしたという驚くべき仮説を検証した本である。この本については以前に書いた記事を参照していただければと思うが、私がこの本を読んだ時、その面白さに引き込まれはしたものの、それでもやはりあの広い広い太平洋を鎌倉時代に渡った人が本当にいたのだろうかという点はやはりにわかには信じられないという感想を持っていました。



それがこの夏休みに、網野善彦さんと森浩一さんの対談をまとめた『この国のすがたと歴史』を読んでいたら、驚くべきことが語られていたのでログログしたいと思ったのでした。

この国のすがたと歴史 (朝日選書)
網野 善彦 森 浩一
朝日新聞社
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本書の第二章「列島をめぐる交流」に出てくるのが次のエピソードです。

網野 縄文時代からアメリカ大陸と交流があったという説がありますね。縄文時代までさかのぼるかどうかは別として、北太平洋回りで日本列島からアメリカ大陸に行くのは、意外にあっさりできるらしいのですよ。(中略)四国の新居浜の漁師が打瀬網の船で毎年、バンクーバーへ行っているという話が地元の新聞にでたのです。(中略)愛媛の方々が中心になって開いたシンポジウムで、愛媛出身の作家の村上貢さんがその話を紹介したところ、会場から手が上がって、「私の父がやっておりました」という老人が現れたのです。


この老人は、父君が太平洋横断を行っていて事故など起こしたことがないとも仰っていたようです。「打瀬網漁」で画像検索されるとウヘーこんな舟でほんとかなと信じがたいという気になると思いますが、実際に太平洋横断が行われていたようです。また、別の例として網野さんが挙げられていたのが、南米史を研究されている長男の鉄哉氏の話でした。それによると17世紀前半のペルーに20人の日本人がいたことを示す資料が存在するのだそうです。こうした事例をもとに網野さんは「縄文人だって行かなかったとはかぎりませんね」と鎌倉時代はおろか縄文時代の人々がアメリカ大陸に渡っていた可能性を指摘しておられました。


もちろんこれをもってズニ族の謎に決着が着くわけではないですし、源義経が海を渡ってチンギス・ハーンになったわけでもないですが、個人的には昔の人々の航海技術をかなり勝手に過小評価しちゃってたなと反省しました。縄文人版の太平洋ひとりぼっちみたいな状況が想像よりもかなり頻繁にあったと考えたほうが実情にあっているのかもしれません。ただこういうのは自分で経験したわけではないので、例えば南太平洋の海洋民の大移動の話とかを耳にしても、なかなか実感として理解できないという面がありますね。熟練した漁民は、上島さんがアツアツのおでんを口にするくらいの感覚で太平洋横断してたんでしょうか。分かりません。またこういう話が出てくると、聖徳太子は黒人だったとか、織田信長は実はポルトガル人だったとか、デープ・スペクターは越谷出身だとか、麻世とカイヤは実は仲良しとか、色々なトンデモ系が勢いづくという面もあるので実証を疎かにしていいわけではないですね。まあそれでもなお移動手段の乏しかった時代、広い世界を思い描き、時には危険を犯して遠い世界に旅をしていた人々がいるのだと思うと、グローバルだよおっかさんと現代人の専売特許のように叫ぶのも少し気恥ずかしい気がしてきました。


さて、この対談集では、これ以外にも古代から中世にかけての国内外での人の動き、物の動きのダイナミクスについて論じられています。そして人と物の移動の範囲の広さに改めて感動を覚えます。第二章の小見出しの一部を拾ってみると



「東アジアのなかの八丈島」
「隼人の移住」「隼人と竹文化」
「ブドウのきた道」
「地名からたどる集団の交流」
「交易民としてのアイヌ
奥州藤原氏の背景」


いずれも興味深い内容でしたが、個人的に一番興味をもったのが隼人の移住性と竹文化の話題でした。森さんによると、隼人はその移住性に特徴があり、この移住には国家の強制もあったが、自発的移住もあっただろうと述べられていました。大隅の隼人の例が挙げられていて、現在の新大阪付近に要となる移住地(大隅島!)があったと考えられているそうです。そして、そこから淀川をさかのぼった現在の京田辺市のあたりに移住して集落(大住村!)を形成していたことは正倉院文書の「隼人計帳」で確認できるそうで、そこの遺跡調査によると少なくとも五世紀には移住があったようです。この文脈で森さんが、『竹取物語』には隼人の月と竹の話が取り込まれているのではないかと述べられていて非常に驚きました。

竹取物語』は南山城で煮詰まってきたと、一部の国文学の先生はみているけれど、僕は一歩進めて、南山城のなかの隼人の地域で煮詰まってきた、竹の物語、月の物語につながっていると思います。そう考えたら、隼人にはこれといった文化がないどころか、日本で最初の物語をつくり上げる原動力になった人たちだといえるでしょう。

森さんは、男山丘陵は隼人の勢力範囲の北端だから電球で男山八幡の竹を使ったエジソンは隼人に感謝するべきキリ(少し意訳)とまで仰っていておもろおました。十数年前の本ですが、興味のある方は是非どうぞ。








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