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なぜ大どろぼうホッツェンプロッツは死なないのか?

この物語は自分のために書かれたに違いない。不思議とそんなふうに感じる作品がある。そう感じるかどうかというのは、面白い面白くないという感覚と必ずしも対応しているわけではなくて、例えば鴎外も漱石も面白いけれど、鴎外の作品を読んで自分のために書かれたというふうに感じることはまずない。これが漱石になると、自分のために書かれた感がかなり強くなる。これは読む時の年齢によってもまた違う感覚があるのだろうし、もちろんこういう感覚というのは人それぞれにあって、それぞれに愛着のある作品というのがあるんだろうと思う。




オトフリート・プロイスラーさんが亡くなられた。
→「オトフリート・プロイスラー氏死去=ドイツ児童文学作家



小学生のとき、従兄弟の家で『大どろぼうホッツェンプロッツ』を読んだ時、これは自分のために書かれたんじゃないかと本気で思った。主人公のカスパールと仲良しのゼッペルは本当の友達のように思えたし、カスパールのおばあちゃんは本当のおぱあちゃんのような気がした。フランツ・ヨーゼフ・トリップさんのキモカワイイ挿絵の力もあってグイグイと物語の世界に引き込まれていった。


小学生の自分にはなんのことかよく分からない物も出てきてそこがまた魅力だった。ハンドルを回すと「五月は、ものみなあらたに」を演奏する手挽きコーヒーミル、というのが物語の冒頭に出てくるのですが(本文中では「コーヒーひき」となっている)、当時我が家にはコーヒーミルがなかったこともあって、父親に訊ねた記憶がある。なんでこんなつまらないことを覚えているかというと、後日、父が、コーヒーミルとはなにかを説明するためにわざわざ本物のコーヒーミルを購入してきたからだ。インターネット、なかったんですね、改めて思うと。


『大どろぼうホッツェンプロッツ』シリーズは、食べる場面の描写がまた素晴らしい。

カスパールとゼペットは、なまクリームのかかったプラムケーキを、おなかがひめいをあげるほど、どっさりたべました。

カスパールのおばあさんのうちでは、木曜日は、やきソーセージにザワークラウトーときまっていたからです。
 やきソーセージにザワークラウトは、ガスパールとゼッペルの大好物です。ですから、もしも、ふたりののぞみどおりに、ことがはこべるものなら、一週間は、七日とも木曜日にしたいところーあるいは、もっと欲をいえば、一週間をばいにして、十四日とも木曜日にしたいろことでした。

ホッツェンプロッツは、いろいろな薬味を小さくきりきざみ、それをフライパンに入れて、かきまぜました。ーすると、すぐにおいしそうなにおいが森の中にひろがっていきます。カスパールとゼペットは、口の中につばがわいてきました。
(中略)
「いただきます!」
 少年たちは、どろぼうのごちそうを指でたべるのです。そのために、いっそうおいしくおもいます。


それからホッツェンプロッツ・シリーズは3作品あるわけなんですが、「オチ」の部分が凄く好きで、ストーリーと関係ないので3つとも引用しちゃいます。

それで、ふたりは、たいへんしあわせでしたから、もうだれとも、かわりたくありませんでした。もちろん、コンスタンチノープルの皇帝とも、かわりたくなかったのです。

そして、いまは、どんな人ともかわりたくないほどーたとえジェットコースターの無料パスをとってくれるといっても、かわりたくないほど、しあわせでした。

そして、ふたりは、だれともかわりたくないほどーじぶんじしんとさえもかわりたくないほど、たいそうしあわせでした。

このなんか同じ調子を繰り返していく感じが凄く好きで、考えてみると自分が文章を書くときももの凄い影響されているなと感じます。


今は、自分の子供が『ホッツェンプロッツ』を好きになっていて、それはなんか不思議な感覚ですけど、やっぱり凄く嬉しいですね。「ホッツェンプロッツ」とか「ディンペルモーザー」とかかなり言いにくそうですけど。ていうか言えてないですけど。


今回プロイスラーさんの訃報に接しても、全然実感がわかないですね。でもとりあえず今は「ありがとうございました」って言いたいと思います。寂しいですね。なんだかホッツェンプロッツのように「ふたたびあらわれ」たり「みたびあらわれ」たりするような気もしています。