『かいじゅうたちのいるところ』の「かいじゅう」の正体について

今日はモーリス・センダックの生誕85周年だそうですね。親しい友人のグーグルさんが教えてくれました。いつもありがとう。


さて、せっかく生誕85周年ということなので、センダックの代表作のひとつ『かいじゅうたちのいるところ』(これはケネディ暗殺の年に世に出た)について小ネタをば紹介したいと思います。




絵本の世界で最も頻繁に耳にする問いのひとつが「『かいじゅうたちのいるところ』の「かいじゅうたち」というのはいったい何者なのか?」というものだと言われています。言われてませんか。そうですか。個人的には「赤い服の野ねずみと青い服の野ねずみと、どっちがぐりでどっちがぐらだっけ?」と双璧をなす重要な問いであると考えています。考えなくていいですか。そうですか。



でも実はこの「かいじゅうたち」の正体については、センダックさんご本人の口から割りとあっさり語られています。ここでその答えを示そうと思いますので、ああそんなの知らないままでいたいという人はここからは読まないで下さいね。



岩波書店から出ている『センダックの絵本論』所収のエッセー「ざっくばらんな話」がそのソースです。




このエッセーの中で、どこからあんな「かいじゅう」がやってきたのかが語られています。「かいじゅう」たちは突然出現したらしいのですが、センダックも驚いたことに、それが彼のよく知っている人たちだったというのです。

それは多分、ブルックリンでしばしばくり返されたあのぞっとする日曜日の記憶-だれ一人として特に好きではなかった伯母や伯父たちが来るというので、姉も兄も私も正装しなくてはならなかったあの日曜日の記憶から出てきたのだと思います。
(中略)
もし母の料理のできるのが遅すぎたら、彼らがひどくお腹をすかし、私の上にのしかかるようにして頬っぺをつねり、「ほんとにおいしそうだね。食べてしまいたいくらいだよ」と言うのではないかと、私はいつも心配していました。(中略)ですから結局、「かいじゅうたち」はあの伯母や伯父たちであったようです。彼らの眠りが安らかなものでありますように。


伯父様、伯母様、お気の毒。



この「ざっくばらんな話」というエッセーはその名の通りざっくばらんに語られているんですけど、「子どものとき私を怖がらせ、多分その脅かしによって私を芸術家にした怪物たち」というのが一応のテーマになっていて、センダックさんが子ども時代に恐ろしいと思っていたものが具体的に紹介されていて凄く面白いです。例えばそれは、両親、姉、リンドバーグ誘拐事件、学校、そして電気掃除機(!)だったりします。センダックのこれまた代表作のひとつに『まどのそとのそのまたむこう』がありますが、実はあの作品が「私をリンドバーグ事件から解放してくれました」とセンダック自身が語っていてあまりの意外さに驚いてしまいました。



ここで紹介した「ざっくばらんな話」というエッセーは、わずか10頁程度の短いものなんですが、私自身は大好きで幾度となく読み返しています。特に結びの部分がなんか好きで何度読んでもじ~んときてしまいます。

私は子どもの読者を想定して書いているわけではないのですが、最高の読者は子どもだということに、もうずいぶん前から気づいています。(中略)彼らは専門的な批評家より率直で、要点を見事についています。(中略)子どもが本を好きになってくれたとき、その批評は「あなたの本、だいすきです。ありがとう。大きくなったら、あなたとけっこんしたいです」といった具合です。でなければ、こうです。「しんあいなるセンダックさん。ぼくはあなたの本がきらいです。さっさと死んじまえ。かしこ。」


じ~んとくる内容でもない気がするんですがなんかよく分からないけどじ~んときます。


この「ざっくばらんな話」が収められている『センダックの絵本論』ですが、「絵本論」と謳っているように、センダックによるコールデコット論、ウインザー・マッケイ論、アンデルセン論、ビアトリクス・ポター論、ディズニー論などなどが収められていて最高に面白いです。ちなみに、センダックとミッキーマウスは同級生(1928年生)という「間柄」で、ミッキーマウスとの「友情」(と彼のその後の「堕落」に対する批判)について語るくだりなんかもセンダックならではですごく味わい深いのでまた改めて紹介するかもしれません。取り敢えず今日はこんな感じで。


アメリカという国が大嫌いという人も、センダックという人物を生み出してくれたという点だけは少なくとも恩義を感じなければならないのではないかと思う生誕85周年の今日なのでした。