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モーツァルトの息子とヒトラーの兄弟

池内紀さんのエッセイ『モーツァルトの息子 史実に埋もれた愛すべき人たち』を読んだ。



本書の裏表紙には次のようにある:

実在しながらも歴史の中に消えていった30人の数奇な運命を描く。

また「文庫版のためのあとがき」で、著者自身は本書を次のように位置付けている

この『モーツァルトの息子』に入っている三十人は、読書の裏通りで出くわした人々である。ものものしい伝記を捧げられるタイプではなく、その種の伝記にチラリと姿を見せ、すぐまた消える。ただなぜか、その消え方が印象深い、そんな人たち。

30人の生き様が小気味良く描かれている。実在の人物が描かれているのだが、ミステリーの短編集のような味わいがある。一編読み終えるごとにフーッと息を吐いて軽く高ぶった気持ちを整える。表題作の「モーツァルトの息子」や、ノルウェーのノーベル賞作家クヌト・ハムスンを描いた「ヒトラーの兄弟」などがタイトル的にはキャッチーだけど、それ以外の物語の方が私好みだった。19世紀オーストリアの「落書き魔」、三十年戦争期のスウェーデン女王、罵倒だらけの旅行記の著者、ミケランジェロを脅した美術評論家、理由なき殺人を繰り返したイギリス紳士、などなど多種多様な人々が登場する。そこには、その人らしい人生、その人にふさわしい人生、などがあるわけではない。ただただ、その人の人生があるだけだ。


色々と小ネタも満載でそこも面白い。「貴族の血」と題された1編の主人公はサイレント映画の巨匠エーリッヒ・フォン・シュトロハイムなのだがこんなエピソードが出ていた:

撮影にあたりシュトロハイムは、貴族の館を寸分たがわずハリウッドに再現した。壁、壁紙、カーテン、ベッド、敷物、装飾・・・・・・。すべてがホンモノでなくてはならない。(中略)召使がそっとドアをノックする。ノックの音が気に入らないので撮影に三日かかった。


彼はサイレント映画を撮っていたのだが。そしてこの異常なまでに「ホンモノ」に拘った自称元貴族という映画監督の経歴自体が実は・・・というオチがつく。


オチと言えば、この本の浮き沈みも面白い。再びあとがきを引用してみる

書き上げていた四十人ちかくから三十人を選んだのが『姿の消し方』(集英社、一九九八年)のタイトルで本になった。多少の自身もあり、わりと気に入っていたのに、なぜか早々に書店の本棚から消えてしまった。
 以来十年。このたび知恵の森文庫に新しいタイトルで甦る。とてもうれしい。


読めた私も嬉しい。まあ景気の悪いニュースが続く毎日ではあるけれども、「史実に埋もれた愛すべき人たち」の人生に触れてほっと一息ついてみたりしたのだった。