こどもとの会話を記録しよう

ひとつ前の記事で紹介した『笑って伸ばす子どもの力 ユーモア詩が教える子育てのコツ11章』を読んでいたら、精神病理学者 R・D・レインの『こどもとの会話』を思い出したので、書棚から引っ張りだして読み返してみた。

子どもとの会話 (1979年)子どもとの会話 (1979年)
R.D.レイン,弥永 信美

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『こどもとの会話』の著者ロナルド・D・レイン(1927-1987)は、精神科医、精神病理学医で、いわゆる反精神医学の主導者のひとりとして知られているが、最近ではエヴァンゲリオン好きの人の間でしか話題にならないのかもしれない。

好き? 好き? 大好き?―対話と詩のあそび好き? 好き? 大好き?―対話と詩のあそび
R.D.レイン,村上 光彦

みすず書房
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本書の内容は、著者のレインが、彼自身の子どものとの間で実際にあった会話を、記憶をもとに書きとめていたものである *1。先にも記したようにレインは精神科医であり、彼の仕事というのは彼自身の言葉を借りると「自分の生活の相当部分を楽しむことのできないコミュニケーション、誤ったコミュニケーション、またはコミュニケーションの破綻を研究すること」であった。「わたしの仕事は、人間の悲惨さのこの分野を追跡、記述し、理論化の作業を進めることであった」とも述べている。


そのレインがこどもとの会話を列挙した書籍を刊行する理由は「はじめに」で語られている。レインは次のように述べる。

しかし、人間間のコミュニケーションのもう一つの側面ー幸福な側面に関しては、これほど深い注意が払われてこなかったようである。知恵ある人びとのあいだに交わされる幸せな対話は、驚くばかりの複雑かつ微妙な関係の上に成り立っている。(略)幸せな対話は人間間に自由で開けた場を作り出す。そこでは、われわれは純粋に天上的な喜びをもって、ともに現実と遊び、質問と答えを交換し、またなにが問題であるか否かを探求することができる。
(略)
 それゆえ、この心楽しい、また真剣な喜びに満ちたこれらの対話を紹介することは、わたしにとって大きな喜びであり、慰めでもある。もちろんここに時折り荒々しさや凶暴性が顔を出さないというわけではない。ものごとの暗い面が見落とされているわけでもない。しかしわたしの見るかぎり、ここでは嫌悪、悪意、恨み、嫉妬、敵意、羨望、あるいはその他もろもろの人生の影の部分が勝利を誇っているようには思えないのである。

実際の会話をいくつか紹介してみる。登場人物をまとめておくと

  • レイン自身(引用部分で「おとうさん」「わたし」とあるのはレインのこと)
  • ジュータ:レインの妻
  • アダム:息子
  • ナターシャ:アダムの三歳下の妹。


最初に引用するのはレインと妻のジュータが口論して、ジュータがひとりでパーティーにいってしまったという状況下での出来事。前段にもいろいろ面白いやりとりがあるけれどもそこは長くなるので省略して、その日の夜の場面のみを引用する。ジュータはまだパーティーから帰っていない。アダム、ナターシャ、レインの三人でひとしきり遊んだ後、アダムは子ども部屋でテレビを観ている。そういう状況でのやりとり。


p. 37-8(アダムは当時6歳。ナターシャは3歳)

ナターシャは、わたしの肘掛け椅子に考え深そうに座っている。わたしは自分の仕事机のところに座っている。


ナターシャ おとうさん
おとうさん なんだい ナターシャ?
ナターシャ おかあさん 帰ってきたらまじめになるかも知れないわね
おとうさん どういうこと?
ナターシャ おかあさん まじめになるかもしれないわ
おとうさん まじめって 何について?
ナターシャ もしかして怒鳴るかもね(沈黙)アダムに



p. 62-3(アダムはこの当時7歳。)

アダム ぼく 心配なの
わたし なにが?
アダム ぼく なにかいったんだけどさ いってよかったかどうか わからなくって
わたし なにをいったの?
アダム 結婚式のこと 知ってるでしょ?
わたし うん
アダム 結婚式のことで ちょっといっちゃったんだ
わたし どんなこと?
アダム 「われ なんじらを夫と妻と宣す」って
わたし だれにいったの?
アダム お人形にさ
わたし どのお人形に?
アダム ナターシャのちいさな日本人形に
わたし ああ ナターシャの日本人形か
アダム おとうさん いいの?
わたし うん、別に悪いことないと思うよ



p. 100(ナターシャは当時5歳。アダムは8歳。)

ナターシャ なんであの男の子 時計を窓から投げたりしたのかしら
アダム   時間が飛んでくのが見たかったんだよ



p. 165(ナターシャは当時6歳)

ナターシャが本を黙読している。


ナターシャ わたしが読んでるの 聞こえる?
ジュータ  いいえ ナターシャ


絶版みたいだから引用長めでもうひとつ。
p. 151(アダムはレインの息子でこの当時9歳。「おとうさん」とあるのはレイン自身)

アダム   学校に三ポンド持っていっていい?
おとうさん なんに使うの?
アダム   ぼく フランクといっしょにラジオ作ってるんだ。それで部品をかわなきゃいけないんだよ
おとうさん フーン
アダム   そうなんだ。フランクは 自分のお金で買ったんだよ
おとうさん ああ そう。そうだろうねーだけどフランクって誰なの?
アダム   フランクは いろんなことすごくよく知ってるんだ。科学だとか 鳥のこととか。鳥の名前なんかみんな知ってるし それに星とか天文学のことなんかも知ってるんだよ。おとうさん フランクとはなしたらきっとおもしろいよ。それに木のこととか.....
おとうさん うんうん。だけどフランクっていったい何してる人なんだい?
アダム   フランクは中学校の校長先生だよ
おとうさん ああ そうか......フランクっていうのは校長さんなのか。(以下略)


というようなやりとりが多数紹介されている。こどもの「当たり前」と大人の「当たり前」とのずれがこうした楽しいやりとりを生み出すのだろう。これはこどもと生活をしたことのある人ならば誰もが経験することと思う。また自分が子供の頃を思い出せば、今では当たり前のことでも、当時は不思議でならなかったことがひとつやふたつだけでなく挙げることができるだろう。




レインは「はじめに」において次のようにも述べている。

本書を読むことによって、子どもたちのにとっておとなとの接触が有益であるのと同様に、おとなにとっても子どもとの接触が有益であることが明らかにされるとすれば、それこそわたしの望むところである。
(略)子どもの「成長と発達」にとっておとなはきわめて重要であるが、おとなの「成長と発達」にとっても、子どもの存在はそれにおとらぬ重要な役割を担っているのではないか−わたしにはそのように思えるのである。わたしが子どもたちと時間を過ごすのは、そうしなければならない、またはそうすべきだからではなく、単にわたし自身がそうしたいからである。

もちろん、こうした発言の中に、ある種の偽善のようなものを嗅ぎ取ることもできるとは思うが、それでもやはり子どもとの生活からこうした感慨を得た経験のある人は少なくないのではないでしょうか。うちでもレイン先生を真似て面白かったやりとりをメモするようにしています。子どもの成長は早いのでわずか一年前の出来事出会っても、こんなこと言ってたよと伝えるとそれを面白がっています。また、私の親から聞いた私自身の子供時代の逸話(特に失敗系)を子どもに話してあげるととても喜びます。そのときすごく面白いと思ってもニュアンスが微妙だったりして時が過ぎると忘れてしまうことが多いので、記録しておくというのはとても実り多い作業なのではないでしょうか。







ちなみにこの『こどもとの会話』の訳者は『幻想の東洋』の著者である彌永信美さんです。

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ちなみにちなみに彌永信美さんのお父上は数学者の彌永昌吉さんです(よね)。

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*1:したがって、「家庭生活の流れのなかで、意図されずに起こってくる出来事の一部」ということになる。その点でひとつ前の記事で紹介したユーモア詩とは大きく違う。そしてその違いがそれぞれのおかしみを生んでいる。