アジア水牛に引かせた車で自宅から出てくる外科医ジョン・ハンター

『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』を読んだ。

解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯
ウェンディ ムーア,Wendy Moore,矢野 真千子

河出書房新社
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ある人が狂っているのかそれとも狂っていないかの判断は、狂っていない人にお願いするというしきたりの存在がヒトとサルの明確な境界を形作っているが、その判断をくだす人物が本当に狂っていないのかどうかの判定を誰にお願いするのかという問題が未だに残っているような状況にあってみんな困ったなっていうような感じでお過ごしのことと存じますが、取り敢えずジョン・ハンターは狂っていたんだよ、というようなことをここでお伝えしなければなりません。


まず、このジョン・ハンターがいかなる人物かを簡潔かつ出来る限り上品に説明するならば「18世紀イギリスで活躍した解剖医・外科医で、近代外科学の基礎を作った人」あたりが順当だと思われるわけですが、実際のところはより簡潔に「イギリス史上最強レベルの変人」と表現しておいた方がより正確になるわけです。


ジョン・ハンターの変態的な自宅の様子を本書の記述から伺うことができる。

表玄関にはこの家の持ち主の趣味を誇示するように、大きく口を開いたワニのあごが飾ってあるのだ。しかしそれ以上に驚かされたのは、 家屋の外に広がる光景だ。典型的なイギリスの芝を食んているのは、羊や馬や牛ではなく、シマウマ、アジア水牛、シロイワヤギで、中央付近にある草に覆われた小山からは、ライオンやヒョウのうなり声が聞こえてくる。(中略)
 家に近づくと、鎖でつながれた数匹の犬とジャツカルの吠え声と、家畜小屋からの豚やロバ、鶏の餌をねだる鳴き声の歓迎を受ける。片側には大きな温室があり、ミツバチがうなりながらガラス製の観察用巣箱に出入りしている。家屋を取り囲むように深さ六フィートの塹壕が掘られていて、その先には頑丈な木のドアがある。ドアを開けると巨大な銅の桶をそなえた地下の実験室があらわれる。 ハンターはここで、動物の、ときには人間の死体を茹でて、骨を取り出す。


取り敢えずジャッカル黙らせなさいよ。これだけで充分に近所迷惑.comといった風情なわけですが、それ以外にも変人臭が強烈過ぎて、もうヘラヘラ笑うしかないようなエピソードが次々に出てきて鼻血がとまりません。

ハンターが飼っていたヒョウのつがいがあるとき鎖を切って逃げ出し、中庭で犬を襲った。このときの騒ぎの音は周囲の家にも届き、隣人たちを震えあがらせた。ハンターは身の危険を忘れて家から飛び出し、いままさに壁を突き破って村に出ようとしていた一方のヒョウの首をわしづかみにし、まだ犬たちと乱闘中だったもう一方のヒョウもひっつかんだ。 そして、 興奮状態の二頭を夢中でヒョウ用の洞穴に連れ戻したあとに、自分と村民が間一髪で助かったことに気づいた。


取り敢えずヒョウ用の洞穴を埋めなさいよ。隣家の庭から飛び出してきたヒョウに喰い殺されるために生まれてきた人はいないんだということをここで強く訴えておきたいと思います。まったくもって、ご近所さんぶるぶる震える.comといった風情です。


さて、これだけだと「下町の玉三郎」といった風情、じゃなくて、「イギリスのムツゴロウ」といった風情になりますが、ジョン・ハンターの場合、その名が永久に残ることが約束されていると言っても過言ではないレベルの人物でありまして、その理由は解剖学の旧弊を打破した功績、そしてそれに基づく近代外科学の確立という変態的なレベル巨大な業績に求めることができるわけですが、そういった部分はまったく紹介せずに終わるというのがこのブログの運営方針となっているわけです。ご苦労様です。



それでも最後にジョン・ハンターの不滅の魂を端的に物語るエピソードを引用したいと思います。

患者が死んでしまったときは、検死解剖をして原因を追究した。こうして学んだことをもとに、やり方を少しずつ変えては結果を確かめ、さらに研究するという、二百年後の現代に匹敵する科学研究の姿勢で臨んだ。 弟子たちにもその原則を叩きこんだ。 ハ ンターの愛弟子の一人に、のちに天然 痘ワクチンを開発したエドワード・ジェンナーがいる。 そのジェンナーからある問題について相談されたとき、ハンターは、「おまえの推論は正しいと思うが、なぜそれを実験して確かめようと思わないのだ」 と諭したという。


『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』、とにかく面白いです。是非ご一読ください。