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アマテラスはどこから来たのか?

伊勢神宮―東アジアのアマテラス』を読んだ。

伊勢神宮―東アジアのアマテラス (中公新書)伊勢神宮―東アジアのアマテラス (中公新書)
千田 稔

中央公論新社
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「あいつはあんなに卑しい家系に生まれていながら次の天皇の座でも狙っているのか?」などと近所で噂になるのを怖れてこの種の本を紹介するのはおろか、読むことすら避けていたというわけではないのですが、ふと気付くと伊勢神宮のこととか、日本の神様のことってあんまりよく知らないまま今に至ってしまいました。そんなとき友人からこの本を紹介してもらったのでちょっと読んでみました。


全体として色々と面白かったのですが、第四章「近代の神宮」にあった挿話にちょっと衝撃を受けたのでその話からしたいと思います。それは皇室と伊勢神宮との密接な関係を象徴する話として紹介されている。太平洋戦争末期、すでに敗戦の色濃い状況で、ついに1945年の4月から5月にかけての空襲によって皇居の大半が炎上するに至る。その当時の伊勢神宮少宮司であった古川左京さんの談話が本書で引用されている。

宮城が敵機の空襲で炎上した翌早朝、隊長河野欣吾の率ゐる一隊が、陛下の思召によって「もはやここは燃えた事であり、守備の必要はないから、直に伊勢に赴いて神宮の御守護にあたれ」といふ事で差遣された事がある。


要するに、皇居は燃えてしまってもう守るものはないから(!)、皇居の守備隊に伊勢神宮に行くように命じたという話だ。


この話を読んで自分がどうして衝撃を受けたのか、ちょっと説明が難しい。単純にいい話だなと思って感動を覚えたというのとは全然違うし、その指示が不合理だとかそういうような理由で嘲笑的な感情を抱いたというのとももちろん違うのです。強いて言うならば、その具体性というか、生々しさに驚いたということだと思います。伊勢神宮には皇祖神が祀られているのだから皇室にとって極めて重要な存在だというのはわたしにも理解できます。ですが、ああいう状況に追いつめられたときに、具体的に天皇陛下が命じられたことが伊勢神宮の警備であったということが私の想像力を超えていたことによる衝撃だったのだと思います。



さて、著者の千田稔さんは本書の意図を次のように説明している。

本書で、私は日本の神道を論じようとしたのではない。伊勢神宮にまつわる歴史的な文脈を東アジア世界のなかでみつめようと試みた。


副題でも「東アジア」という文言が出てくるが、具体的には中国江南、朝鮮、日本によって取り囲まれた海域(著者はそれを「東アジア地中海」と呼んでいる)を指しており、そこでの文物の移動に着目している。特に、中国から日本、ないしは朝鮮から日本という直線的なルートではなく、中国江南から朝鮮を経由して日本に至る「円環的」な文物の移動の重要性を強調するのが本書の特徴でしょう。 つまり、日本に直接伝えたのは朝鮮であったとしても、その背景にある中国の影響を考えないとトータルで理解しえないものがあるということだと思いますが、本書で取り上げられる伊勢神宮、そしてその祭神であるアマテラスもその一例であると主張されております。


本書の構成を順に追ってみると、第一章「アマテラスの旅路」では、伊勢神宮内宮の祭神である皇祖神アマテラスの来歴を辿っています。ここでももちろん東アジアという枠組みで話が展開する。あまりネタばれになってもいけないので詳しくは述べませんが、アマテラス信仰が二つの異なるコスモロジー(星の体系と太陽の体系)のアマルガムとして成立しているという点などが主張されていて面白かった。またこれと関連して、なぜアマテラスの神体が鏡なのかという点も議論されていた。なお、章題にある「旅路」という文句に引っ張られて、なぜルー大柴や中田ヒデらが自らを旅人と名乗るのかという問題にアマテラスの影を見ているのではないかなどと勝手に期待して本書を購入しないように注意されたい。残念ながら、そういう内容は含まれていない。


第二章「中国思想と神宮」では、なぜアマテラスが伊勢に鎮座したのかという問題に迫っている。観光的にはディズニーランドの近くにするべきだし、百歩譲ってもUSJの近くにすべきであって、断じてパルケエスパーニャの近くにすべきではない、などと主張されているわけではもちろんない。書いてあったら感動するけど。そうではなくて、これも章題にもあるように中国思想(主に道教)との関わりなどから、なぜ「東」の海に位置する伊勢にアマテラスが鎮座するにいたったかが説明されている。


第三章「神国の系譜」では、北畠親房本居宣長、服部中庸(宣長の門人)、平田篤胤などの神国論が紹介されている。本居さんとか皆さん当代随一の秀才ばかりではないかと思うのですが、こうした秀才達が懸命に説く神国論を読むとなぜかひどく切なくなってきます。改めて、ナショナリズムであるとか選民思想的なものというのは壮大なギャグ、それもとびきり物悲しいギャグなのだという思いを強くしました。これは自虐的になって日本だけを貶めているわけでは勿論ないのです。どの国のいつの時代のナショナリズムも等しく物悲しく、なおかつやむにやまれぬギャグなのだと言いたいわけです。そして、自国のギャグが暴発しないようにうまいこと立ち回るのが真の愛国者の義務だ、と言ったのはマザーテレサでも黒柳徹子でもなかったような気がしてまいりましたが、強引に話を戻すと、この章では、わが国の神国の観念の古代からの流れが手際よくまとめられており、非常に勉強になります。


そして、第四章「近代の神宮」は明治以降の神宮の歩みが描かれています。冒頭で紹介した挿話もこの章で出てきます。また、天皇による伊勢神宮親拝が明治天皇から始まったという話はうっすら耳にしていたのですが、本書では東京遷都に対する抗議を封じる狙いがあったことが示唆されていて面白かった。本書の主題からは逸脱した感想になりますが、この章を読んでいて東京遷都(つまり幕府のお膝元に天皇の住まいをわざわざ移した)という政治的決断の意義というものをもう少し勉強してみたくなりました。


第五章「植民地のアマテラス」では、太平洋戦争中に植民地に建てられた神社についてまとめられている。わたしにとっては初めてきく話も多く勉強になったし、伊勢神宮と東アジアとの関わりという本書の主旨からも外れているわけではないのですが、第四章までの展開と比べると、ややもすると記述が記載的に過ぎてやや冗長になっているという気もした。


そして終章では戦後の伊勢神宮の姿が描かれると同時に、折口信夫の神道論に依拠しつつ未来の神道のあるべき姿についても触れられている。


以上が本書の構成である。本書の「あとがき」で著者は次のように述べている。

伊勢神宮について、古代についてのみ書くとすれば、難解ではあるが、海の波のなかを漂流しているような雰囲気のなかに、自分自身をゆだねることができる。しかし、通史的に神宮について語ろうとすれば、ある種の緊張感が私を襲う。なぜならば、伊勢神宮を語ることは、日本という国家の歴史と重なりあう部分があるからだ。


私のように、アマテラスとかホアカリノミコトとかアメノヒボコとかハテナハイクとかが話に出てくると、海外傑作ミステリーを読むときのように、登場人物を整理するだけで嫌になってしまうというレベルの人間でも読み通せたので、伊勢神宮の歴史、日本人の神意識について学ぶための入門編としてお薦めできる一冊かなと思います。とにかく、お世話になった人に慰労金を支払う際に分割払いにすべきではないという教訓以上のことを学べることは間違いありません。お薦めです。