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天才ガウスと超人フンボルトは空気を読みませんね

『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』を読んだ。



本書は2005年秋にドイツで発売され、大ベストセラーになり、数々の文学賞を受賞している。訳者あとがきによると、世界45カ国において出版契約が結ばれているという。


著者のダニエル・ケールマンは1975年生まれでまだ30代半ばであるが、1997年に処女作を発表して以来、着実に評価を高めており、今後のドイツ文学界を背負って立つ人材として期待されるひとりであるらしい。


本書は、日本語版の副題にもあるように、博物学者・地理学者のアレキサンダー・フォン・フンボルトフンボルト兄弟の弟のほう)と数学・物理学・天文学など多方面で今に名を残すカール・フリードリッヒ・ガウスという、実在のふたりの人物を主人公にした小説である。


ガウスは、貧しい家庭に生まれたものの、伝説的ともいえる神童ぶりで幼い頃から天才の名をほしいままにした人物であり、ある意味で天才型ヒーローの典型である。一方で、常人離れした忍耐力で凄まじく過酷な環境にある前人未踏の地を踏破するフンボルトは、努力型ヒーローの典型的人物像となっている。わたしがドイツ版少年ジャンプの編集者なら、オトフリート=プロイスラーに原案づくりをお願いし、作画を浦沢直樹にお願いして漫画化するだろう。それくらいの題材だ。どれくらいの題材なんだ。


この18世紀後半から19世紀前半、つまりヨーロッパでは「ナポレオンの時代」を生きた、タイプの異なるふたりのヒーローの破天荒な人物像だけでなく、ふたりに振り回され倒す周囲の人物の悲哀(と本人の悲哀)が巧みに織り込まれていて、読み進めていくほどぐいぐいと引き込まれていく。科学好きでなくとも十分に楽しめる一冊だと思う。





ということで、たっぷり楽しませてもらったのだが、気になるところをひとつだけ。本書は、ガウスとフンボルトの物語であるのだが、同時に「ドイツ的」なものをめぐる物語でもあるという。本書のなかでも直接的に「ドイツ的」という言葉が出てくる場面がある。


これはフンボルトと「助手」のボンプランが、中南米に滞在して、調査を続けていた際のエピソードで、彼らはそこで日食を観察する機会に恵まれる。しかし、日食が終わり、ボンプランがフンボルトに話しかけると、測定に忙しくて*1日食を見なかったと告げられて、ボンパルンが驚く場面である。

p. 81-2

どんなふうだったかね、とフンボルトは尋ねた。
 ボンプランはとても信じられないという顔をして彼を見た。
 (中略)
 ああいうものにはもう二度と会えないんでしょうね、とボンプランはかすれ声で言った。本当に顔を上げてはならなかったんですか?
 いまやこの地点は、永遠に世界地図のなかに記録された。天空の力を借りて時計の誤差を訂正できるような瞬間なんてめったにないんだよ。これほど真剣にとり組むべき作業なんてないだろう!
 まあそうかもしれません、しかし・・・・・・。ボンプランはため息をついた。
 何だというんだね? フンボルトは天文暦の一覧表をめくり、鉛筆をとり出すと計算をはじめた。しかし、どうしたというんだ?
 あなたはそれほどまでに、つねにドイツ的であらねばならないのですか?


「ドイツ的」云々については、訳者の瀬川祐司さんによるあとがきでも紹介されている。

p. 332

なおケールマンは複数のインタビューで、この作品はまさに<ドイツ的であること>をめぐる小説にほかならないとも語っている。すなわち、ガウスとフンボルトが全編を通じて何かに取り憑かれたように振る舞うこと、強烈な集中力を発揮して偉大な業績を残すのはよいとしても、他方では周囲の状況をまったく気にしないような猪突猛進的で無神経な姿勢をとることが、悲しいまでに<ドイツ的>であるというのだ。


ドイツ人のことはあまりよく知らないけれども、最初にこれを読んだとき、なんとなくそうかなとは思った。「ドイツ人あるある」みたいな感じで言われると「あるある」と言ってしまいそうではある。


が、ちょっと気になって考えてみたが、これは本当に「ドイツ的」なのだろうか? 例えば、この「ドイツ的」という部分を「日本的」と差し替えてみても「ああ、あるある」となりそうである。あるいは「英国的」としてもさして違和感は感じないだろう。*2


ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』において次のように述べている。

わたしの理論的出発点は、ナショナリティ、―――、それが、ナショナリズム[国民主義]と共に、特殊な文化的人造物であるということにある。―――。あるいはこう言えばよいだろうか。つまり、ナショナリティ、ナショナリズムといった人造物は、個々別々の歴史的諸力が複雑に「交叉」するなかで、十八世紀末にいたっておのずと蒸留されて創り出され、しかし、ひとたび創り出されると、「モジュール[規格化され独自の機能を持つ交換可能な構成要素]」となって、多かれ少なかれ自覚的に、きわめて多様な社会的土壌に移植できるようになり、こうして、これまたきわめて多様な、政治的、イデオロギー的パターンと合体し、またこれに合体されていったのだと。


つまり、ケールマンが「ドイツ的」と感じる要素は、まさにモジュールとなっているようにわたしには思えるのだ。もちろん、ケールマンに、ドイツのナショナリズムを高揚させる意図があったなどと言いたいわけではない。むしろケールマンは、一歩下がった地点から、冷ややかに「ドイツ的」なるものの病理を観察しようとしているのだと思う。


だが、「ドイツ的(あるいは日本的)」なもの云々という場合、それが肯定的に捉えられているにせよ、否定的に捉えられているにせよ、それが本当に「ドイツ的(日本的)」なものなのかどうか、そもそもそこから吟味してみるといいのかもしれない。そして特にドイツ的だとか日本的だとか言えないようなものに、ドイツ的だとか日本的だとかいうラベルを貼付ける行為(恣意的な切り出し)がどういった心性に由来しているのかを一度考えてみてもいいように思う。


それが「恣意的な切り出し」である場合に、こういうことは考えてみてもいいのかもしれない。例えば「典型的」ドイツ人 *3 が、「強烈な集中力を発揮して偉大な業績を残」し、その一方で「周囲の状況をまったく気にしないような猪突猛進的で無神経な姿勢」をとった場合には、それが「ドイツ的」だとみなされて、苦笑いをされながらも肯定的に受容されることは想像にかたくない。フンボルトやガウスのケースはそうではなかったか。そして、その一方で、例えばトルコ系ドイツ人が、同じように、「強烈な集中力を発揮して偉大な業績を残」しつつ「周囲の状況をまったく気にしないような猪突猛進的で無神経な姿勢」をとった場合に、それはどう受け止められるがちなのだろうか。敢えてうがった見方をすると、単なる利己的で嫌な奴として簡単に排除されてしまったりしないだろうか。


もちろん、妄想乙と言われればそれまでのことかもしれないが、こういった危険性はドイツに限らずどの国にも孕まれている。それが恣意的であるが故に。



もの凄い勢いで脱線してしまった。これなどまさに日本人的だ ( ゚д゚)


ダニエル・ケールマンの著作


その他参考にした本

*1:そのときフンボルトは、日食をロマンチックに観察して楽しむのではなく、日食を利用して、自分がいる河辺の街の正確な位置を天文学的に確定しようとしていた

*2:ただし、「イタリア的」とされるとそれは違うかもしれない(いらんこと言うな!>自分)

*3:典型的ドイツ人とは?