「気ちがいども、殺すのをやめて話を始めろ!」とあの人は言った


デイヴィッド・グロスマンの『死を生きながら イスラエル1993-2003』を読んだ。



著者のデイヴィッド・グロスマンは1954年、エルサレム生まれの作家。二木麻里さんによる訳者あとがきにもあるように、グロスマンは政治的には「左翼」であり、「対立するパレスチナの人びとの世界観をありのままに受け止めて語る」という意味で「イスラエルのユダヤ人としても少数派」に位置するという。


『死を生きながら』は、副題にもある通り1993年から2003年という激動の時期に書かれた手記、新聞などに発表されたエッセイ、日記、公開書簡などから構成されている。1993年といえばパレスチナの暫定自治に合意が得られたいわゆるオスロ合意に世界中が沸いた年だった。そしてそこからの10年というのは、和平に対する希望がいわば木っ端みじんに砕かれていく過程でもあった。本書は、グロスマンによる冷徹な歴史証言でもあると同時に悲痛な叫びでもある。



1993年9月のオスロ合意調印の直後に書かれた文書は、美しい希望に満ちている。本当に今度こそは信じていいのではないか、今度という今度はという切なる思いが伝わってくる。

 この将来のヴィジョンを実現し、このヴィジョンにしたがって生きることができるようになれば・・・わたしたちの人生のすべてに死が影を落とすこともなくなる。そしてイスラエルの集合的意識、人生とは潜在的な死であるという意識の奥深くに根ざす暗い破滅の宿命観から、みずからを解き放つこともできるかもしれない。
 自己決定とはこういうことを意味しているのである。イスラエルがパレスチナに自己決定権を認める合意ができたなら、みずからも自己決定の権利を獲得できるだろうと、わたしはずっと信じてきた。いまイスラエル人にとって、パレスチナ人にとって、そしてこの地域で正気を失っていない諸国にとって、そのときが訪れた。いまここにあるもの、それは未来である。

しかし、1995年にはその後の和平交渉の終わりの始まりとも言えるラビン首相暗殺事件が起きてしまう。和平反対派のユダヤ人法学生イガール・アミールによる犯行だった。以下はその際に書かれた文章の一部である。

 暴力は社会生活と私生活のあらゆる場所に浸透し、わたしたちを害してきた。長年、敵に対してだけでなく自分たち自身に対しても、この暴力、この憎悪、このはげしい嫌悪と残酷さを向けるのにわたしたちは慣れている。この暴力が殺人者のかたちをとったのである。
 (中略)
しかしただ災厄から災厄へと命をつなぐだけではなく、最終的に<生きる>ことができるためには、和平だけが残されたチャンスである。土曜の夜のラビン暗殺はもっとも衝撃的なかたちでわたしたちに警告したーこれからは平和のための戦いが、生きのびるチャンスをかけた戦いになる。一つの国家として、一つの社会として、そして人間としてまっとうに発展していくためのチャンスをかけた戦いになるのであると。

ラビン暗殺後の1996年から「自爆テロの時代」が始まる。パレスチナ過激派のハマスが主導する自爆テロがもたらす恐怖についても生々しく書かれている。

一つ一つの決定に運命がかかっている。この店で何か飲もうか、それとも次の店にしようか。二人の子を学校にやるのに、いつものバスに乗せるべきだろうか。それとも上の子を七時一〇分のバスに乗せて、下の子を次のバスにすべきだろうか。
 (中略)
 わたしたちイスラエル人は、死と紙一重の近さで生きることに慣れている。かつてある若いカップルが将来の設計について話してくれたことを、わたしは決して忘れないだろう。結婚して、三人の子どもをもつ。二人じゃなくて三人。そうしたら一人死んでも、二人残るから。この胸をえぐられるような考え方は、わたしにとっても縁遠いものではない。この国をおおっている耐えがたい死の軽さがつくりだしたものだ。ものごとをこのようにみるには、長らく苦しんできたパレスチナ人の特徴でもある。

後から振り返れば、この時点で和平への芽は摘まれているわけで、この章の後半にある和平を希求するメッセージは悲しく響く。





本書を読み進めると、浮き彫りになるのは彼の「政治性」ではない。本当の意味で<生きる>ことを希求する姿勢だ。それはある意味で真の意味での政治性かもしれないが。以下はエルサレムの地位の問題について言及した箇所である。これはイスラエルから遠く離れた場所で書かれたものではなく、エルサレムで書かれた文章だ。エルサレムの地位について、エルサレムにおいて幾ばくかでも「妥協」する姿勢を示すということの困難さは想像を絶している。

わたしはエルサレムの地位の問題について、双方が柔軟性を示すだろうと信じている。そしてそのときが訪れたときーその前に、またひとしきり流血がつづかないことを願うがー双方とも自覚することだろう。神聖なのはエルサレムだけではないこと、この都市に住む人びとの生命も、それにおとらず神聖なものであることを。

「生命への敬意」は抽象的な生命へに向けられたものではない。15章の「ガザの少年死亡事件について」において次のように述べる。

 この一年半のあいだ、バラクとアラファトは和平について対話をつづけてきた。子どもたちのために平和が必要だという。しかしどちらも、なにか抽象的な平和、比喩的な子どもについて話しているようにみえる。
 十二歳の少年が、いま両者のあいだに横たわっている。名前と顔をもち、その顔が恐怖のためにゆがんだ子。この亡くなった少年は、手をふれることのできる遺体として横たわっている。
 パラクとアラファトにもっと勇気があれば、真の勇気があれば、この子は死なずにすんだろう。たとえいま、ついには和平の合意に達したとしても、わたしの心にはこの少年、ムハンマド・アルドゥラーの顔が、いつまでも呪いとして残るだろう。


この姿勢は他の箇所でも同様に貫かれている。以下は16章でパレスチナの友人に向けた書簡の一節である。

 ご存知のように、わたしはテレビを見るとき、いつもあなたの視点から見ようとつとめています。パレスチナの群衆がイスラエル軍の陣地めがけて押し寄せるのを見るときは、一人の個人の顔を見分けようとします。あなたのお子さんかもしれないと思って見ます。(中略)わたしはさまざまな写真をじっと見つめます。投げようとして石をつかんだ手が上げられている様子、人びとの顔が憎悪でゆがんでいる様子、そしてイスラエルの兵士たちが銃の照準を合わせ、発砲している様子を見ます。そして近いうちに兵役につく自分の息子のことを考えます。息子の顔や身体も、この憎悪と戦いの姿勢にたちまちなじんでしまうのでしょうか。

こうして常に抑制のきいた怒りを表明するグロスマンだが、その彼をしてついに堪え切れなくなる場面がある。2001年12月。イスラエル、パレスチナの暴力の応酬が日常化し、一般市民が毎日当たり前のように命を失うという時期である。

 いま午後三時である。この時刻を書きとめておくのは、この文章を送ったあとで何が起こるかわからないからである。わたしはこういう瞬間に多くの文章を書いてきた。攻撃の前に、攻撃の後に。何度も何度も、二つの民族の行動の背景にある論理を理解し、説明し、発見しようとつとめてきた。だがいまわたしがやりたいことは文章を書くことではない。いまやりたいのは黒の塗料の缶を持ち出して、エルサレムのとガザとラマラのすべての壁にこう落書きすることだ。気ちがいども、殺すのをやめて話を始めろ!


「死を生きながら」も、和平に向けて辛抱を重ねてきた人物の悲痛な叫びだ。この状況でわずかでも希望を持つことは不可能であるように思われるが、本書の序文でグロスマンは次のように語っている。

たがいに相手を苦しめあう蛮行をみていると、この地域で生きたいという欲望だけでなく、そもそも生きつづけたいという欲望まで失ってしまう。
 わたしたちの内部に掘られたこの落とし穴から抜け出せるどうかは「選択の余地はない」「交渉相手がいない」といったことばに示される考え方に抵抗する能力をもてるかどうかにかかっている。この戦闘は、イスラエル人とパレスチナ人とのあいだでおこなわれているのではない。絶望に甘んじない人びとと、絶望を自分の生き方にしようとする人びとの間でおこなわれているのである。


二木麻里さんによる「訳者あとがき」も大変素晴らしい。未読の方は是非一度読んでみていただきたい。今回触れなかったが、26章「ゼエヴィ観光相の暗殺、イスラエル軍のラマ侵攻」にある「二〇〇一年十月十三日土曜日」に書かれた日記を読むとなぜだか涙が止まらなくなる。



デイヴィッド・グロスマンの著作



今週のお題「心に残った本」