「せっかちな野郎は支援の場から去れ!」

エドガー・H・シャインの『人を助けるとはどういうことか  本当の「協力関係」をつくる7つの原則』を読んだ。



かなり前になるが、司馬遼太郎だったか上岡龍太郎だったか忘れてしまったが、「アメリカの大学というのはものすごいプラグマティックで、小説の書き方を教える学科まであるんやけど、そんなもんてほんまに教えられるんかいな」みたいな話をしているのをなんかの本で読んだ記憶がある。今回読んだ『人を助けるとはどういうことか』は、人助けをテーマにしている。それこそ、そんなことを体系的に教えることなんか可能なんだろうか、もう助けてというのが読む前の印象だった。


目次は以下のとおり。

1 人を助けるとはどういうことか
2 経済と演劇―人間関係における究極のルール
3 成功する支援関係とは?
4 支援の種類
5 控えめな問いかけ―支援関係を築き、維持するための鍵
6 「問いかけ」を活用する
7 チームワークの本質とは?
8 支援するリーダーと組織というクライアント
9 支援関係における7つの原則とコツ


目次をみると分かるように、「支援」の話から「チームワーク」や「リーダーシップ」の話へと展開しており、おやっと思われるかもしれないが、読んでみると違和感なく一連の話としてつながっていることが分かる。というのも、著者のエドガー・H・シャインさんは、名前から素直に連想するとどこかの社員なのかと思ってしまうが、その正体は組織心理学、組織行動論の大家で、MITのスローン経営学大学院名誉教授ということで、「支援論」と「組織論」とは著者の長年のキャリアの中で構築されたものであるらしい。シャイン先生の経歴については、本書の監訳者解説で詳しく語られている(本書は全体で290ページ程度だが、なんと監訳者解説が40ページ近くもある)。


さて、MITスローンの先生が書いた本なので、朝三時半に起きて翌朝の四時まで働くエリートビジネスマン達が想定読者なのかなと思ってしまうのが人情というものだが、実際に読んでみるとそんなことはないことが分かる。まえがきで著者は次のように述べている

支援に関する一般理論は、あらゆる状況における効果的な支援と、効果的でない支援との違いを説明できなければ役に立たない。それには曲がり角で道を尋ねた人に方向を教えるといった、ごく単純な支援も含まれる。


確かにここで言われているように、昼近くにもぞもぞと起きだして、異物混入前に買いだめしていたペヤングをむしゃむしゃと食べたら、夕食直前までまたたっぷり昼寝をして、コンビニ弁当を食べながら深夜に数独をやっているような人たちにとっても有益な内容になっているのが本書の特徴であろう。本書で実際に出てくる事例としては、シャイン先生自身が経験した次のような「支援」が挙げられていた。あるとき、シャイン先生が自宅を出たところで、車を運転していた女性から「マサチューセッツ通りはどちらですか」と尋ねられたというものだ。私のような田舎者は真っ先に「そもそもマサチューセッツ通りってどこやねん!」と脊髄反射的に思ってしまったが、我慢して読み進めていくと、そこでのやりとりの中にやはり支援の本質が潜んでいることが分かるようになっているのだ。


また、本書の原題は『Helping: How to offer, give, and receive help』であり、支援する立場の人だけでなく、支援を受ける立場の人にとっても示唆に富んだ内容となっている。支援する人がいるということは、支援される人がいるということであるわけで、支援の質を高めるためには、支援する側の質を高めるという方法だけでなく、支援される側の質を高めるという道もあるということだ。本書の第4章「支援の種類」においては、「支援者が知らない五つのこと」という節に続いて、「クライアントが知らない五つのこと」という節も用意されており、支援を受ける側の心得も具体的にまとめられていて面白い。



本書は全体に非常に平易に書かれており、読んでみて内容を理解できないということはないと思う。なので本書の要約をここでする必要性を特に感じないのだが、それではあんまりさびしいので、頼まれもしないのにあえて本書のメッセージを自分なりにまとめるとすると「せっかちな野郎は支援の場から去れ!」ということに尽きると思う。「問題」が分からないうちに上から目線で「解答」を提示してしまう糞コンサルタントなどタンスの角にしたたか足の小指を打ちつけられてしまえと仰っているのだ。そんな下品な表現はいっさいないけど。さらに、もう一歩絞り込んで、本書において大事なキーワードを挙げなさいと言われたならば、「控えめ(humble)」という単語がトップ100には入るだろう。支援者が辛抱強く控えめな問いを繰り出し、クライアントとの信頼関係を築きながら、(クライアント自身も気付いていない)真の問題をあぶり出すことが、支援を成功させるのにいかに重要であるかということが、本書では一定の説得力を持って語られている。また、そうした支援関係を構築・維持する際の実践上のコツも、第5章、第6章などでかなり丁寧に提示してあり、支援についての一般的、概念的な解説だけでなく、日常生活での様々なシチュエーションですぐにでも役立つ内容となっている。


しかし、本書を読み終えて、なるほどと思わせるものが多々ある一方で、ちょっと待てよという疑問符もちらついてくる。果たして、チームの文化やメンバーの個性をよく理解しようとする「控えめ」なリーダーがいる組織こそが、世の中に革新をもたらすような大きな成果をあげているのだろうか? 天才的な糞野郎の一瞬のひらめきによって支えられる独裁的な組織こそが革新の担い手になるということはないのだろうか? つまり、支援する側と支援される側との満足度と、そこから生まれるパフォーマンスとの間には、どの程度厳密な関係があるのだろうかという点は疑問として残った。皆さんは本書を読んでみてどのように感じられるだろうか。

『スタンフォードの自分を変える教室』を読んだ

スタンフォードの自分を変える教室』を読んだ。

スタンフォードの自分を変える教室スタンフォードの自分を変える教室
ケリー・マクゴニガル,神崎 朗子

大和書房
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この本のタイトルだけ見た時は、スタンフォードには創設以来伝わる20個の教訓というのがあって、スタンフォードの学生はそれを常に意識して勉強に励んでいて、だからスタンフォードの教室は朝四時でも満員御礼なんだけど、みんな貧乏だからかけそばを一杯だけ注文して、それを教室にいる全員でシェアするみたいな日々の中で、教室に神様が登場して「お前の頼んだかけそばは金のかけそばか?」みたいなこと言うので、「いえ私たちが頼んだのはただのかけそばです」みたいな返事をしたら、「君たちって凄い正直者じゃん」って神様がすごく感激して、それを見たスタンフォードの学生の人生感が超微妙に変わった的な話を想像していたけどそんなんじゃなかった。


この本は「意志の力」についての本だす。ダイエット記事には毎回あれほどのブクマが付くのになぜあれほどの決意で臨んだダイエットが早々と挫折してしまうのか、あるいは、英語学習記事には毎回あれほどのブクマが付くのに年始に誓いをたてた毎朝の英語学習計画が成人の日まで続いた試しがないのはなぜかという悩みに対する回答が科学的知見に基づいて提示してある。スタンフォード版のためしてガッテンと思ってもらえば良いのではないかと思う。


本書はスタンフォードの生涯教育プログラムの公開講座「意志力の科学」をもとにしている。「意志力」に関する「最も優れた科学的見解」を紹介するとともに、講座で実際に行っている「実践的なエクササイズ」(およびそのフィードバック)が提示されている。著者自身の言葉を借りると本書は次のような特徴を持っている。

行動変革に関する本の大半は(中略)読者に目標設定をすすめ、さらにその目標を達成するためにはどうすべきかを説いています。しかし、自分が変えたいと思っていることを自覚するだけで事足りるなら、誰もが新年に立てる目標はことごとく達成され、私の教室は空っぽになっているはずです。
 そうではなく、「やるべきことはよくわかっているはずなのに、なぜいつまでもやらないのか」ということを理解させてくれるような本はほとんど見当たりません。


読んでて、「へえっ本当かな?」って疑っちゃう内容もあるのですが、じっくり我が身を振り返ってみると「ああ確かに」と妙に納得してしまうところの多い本でした。面白かった箇所を、見出しだけピックアップしてみます。


  • 食べ物で「意志の保有量」が変わる(第2章)
  • 運動すれば脳が大きくなる(第2章)
  • 腹が減っていると危険を冒してしまう(第3章)
  • 「やることリスト」がやる気を奪う(第4章)
  • サラダを見るとジャンクフードを食べてしまう(第4章)
  • ドーパミンは「幸福感」をもたらさない(第5章)
  • 死亡事故を見たらロレックスが欲しくなる(第6章)
  • タバコの警告表示はなぜ「逆効果」なのか?(第6章)
  • 自分に厳しくても「意志力」は強くならない(第6章)
  • 10分ルールでタバコを減らす(第7章)
  • 脳は「目にした失敗」をまねたがる(第8章)
  • 落ち込んでいるときは誘惑に負けやすい(第8章)
  • 好印象をねらうほど不愉快なことを口走る(第9章)
  • ダイエットは体重を「増やす」行動(第9章)


私が一番面白かったのは第4章「罪のライセンス」でしょうか。上にも挙げましたがこの章にある「サラダを見るとジャンクフードを食べてしまう」という部分は、心理学の「モラル・ライセンシング」という概念で説明されていて非常に興味深い内容でした。人間て、やっぱりちゃんとできてなくておもしれーというのが率直な感想でございます。

『危険な宗教の見分け方』読んだ

『危険な宗教の見分け方』を読んだ。



本書は田原総一朗上祐史浩の対談をまとめたものである。上祐氏というと、現在30歳より上くらいの方であれば説明の必要もないくらいの存在だと思われるのだが、現在ではテレビなどでその姿を見かけることがないので若い方々の間では既に知名度が相当低くなっているのかもしれない。


上祐氏は1969年福岡県生まれ。早稲田大の附属高校である早稲田大学高等学院から早稲田大学、同大学院と進む。早稲田では理工学部で情報通信を専攻していたが、その一方で大学院時代の1986年に麻原との出会いを果たしている。その後、宇宙開発事業団に就職(これは私は知らなかった)するが、ほどなく退職してオウム真理教で出家する。オウム真理教では最高幹部のひとりとして、マスメディアにもたびたび登場していた。当時はマスコミからの質問にいろんな理屈をこねて回答するところから「ああ言えばこう言う」をもじって「ああ言えば上祐」などとというような言い方もされていたように記憶している。その後、サリン事件などを経てオウムの一連の凶悪事件が明らかにされる。上祐氏は(少なくとも法律的には)これらの凶悪事件には関与していないということになっているが、別の事件で偽証罪などで逮捕されて服役している。出所後にオウムの後身である「アレフ」の代表になるが、その後「オウム」から脱却。現在は自らが設立した「ひかりの輪」という団体で活動しているという。「ひかりの輪」というのは、上祐氏自身の定義では「宗教」ではなく「東西の思想哲学の勉強教室」だと言う。


本書では、上祐氏自身が、自らの生い立ちからオウムへの入信、そして数々の事件に対する彼なりの総括、麻原崇拝からの脱却、そして現在の活動に至るまでを、田原総一朗氏の質問に答える形で語っている。ひとつひとつの事実が正確に語られているのかどうか判定することは私にはもちろんできないわけだが、全体として、かなり率直に語られているのではないかという印象を持った。例えば、宇宙開発事業団に入った動機について語られた箇所。

上祐 当時の自分にとって宇宙開発というのは「科学」への憧れだけではなかった。自分の価値を最大限に活かせる分野だと考えたんです。つまり、宇宙開発に携わることは手段であって、目的は「自己の価値を最大化すること」だったんです。


田原 自己の価値を最大化?


上祐 自分を、なるべく重要な存在だと思うことができること。


これについては、最終章(第5章宗教やスピリチュアルとどうつきあうか)で語られる「危険な宗教の見分け方」とあわせて考えると興味深いと思う。上祐氏は自身の過去をふまえて「特定の神様や人を絶対視するほど、どこかで歪み、弊害や危険性が出てくる」と語る。そして、本来の仏教やヨガはそういったものとは異なると主張するとともに、次のように語る。

仏教やヨガにおいて最も大切なことは「我にとらわれない」ということだから、自分は多くの人間の一人で、自然の一部だという相対的な自己観が大切なんです。


ここでの上祐氏の発言の主旨は特定の個人を絶対化してはならないということなのだが、私にはひとつ疑問が生じてくる。「我にとらわれない」で「自然の一部」になるということはつまり自他の境界が曖昧になるということなのだろう。では、この「自他の境界が曖昧になった状態」という感覚が得られた時、その感覚というのは、自己が限りなく肥大化していき「世界」が自己で満たされているという感覚(おそらくこれは全能感に近い感覚だと想像するのだが)と、実際上区別できるものだろうか? 別の言い方で問うとすると、「世界」の中に自己が溶け込んでしまう感覚と、「世界」が自己で満たされる感覚とは、峻別可能なものなのだろうか、ということになるだろう。第五章ではこれからの社会のあるべき姿について上祐氏が語る部分もあるのだが、それともあわせて考えてみても上祐氏の思想について一抹の危うさを覚えたのも事実だった。それはもちろん「元オウムの人」だというバイアスが影響している可能性は否定できないのだが、これについては実際に読んで見た方の感想を是非とも聞いてみたいと思った。


それから印象的だったのは、上祐氏の語り口だった。これは昔から変わっていないと言えばそういうことなのかもしれないし、その善し悪しを断ずるつもりもないのだが、彼の発言に目を通していくと常にどこか他人事のような感じが拭えないのだ。例えば、サリン事件が起きる1995年の数年前から、上祐氏はロシアでの布教活動に軸足を移していたのだが、上祐氏がロシアに行かされたその理由について田原氏が問いただしている箇所がある。それに対して上祐氏は「それには二つの説」があるのだと語り出す。この二つの説の中身については直接本書に当たっていただきたいのだが、上祐氏の語り口というのは次のような感じなのだ。

どうなんでしょう。私は当時はひとつ目の説しか知りませんでした。二つ目の説はむしろ外部の人が言っていることで、ウィキペディアなどを今見ると、左遷説が中心になっています。

さて、本書はさっと読めてしまうくらいの分量なのだが、上記以外にも興味深い記述が多くあった。例えば、オウムの教団内部での人間関係について「当事者」ならではの証言が興味深かった。暗殺された村井秀夫と麻原との関係などは、不謹慎な言い方になるがコントのような趣があった。それ以外にも、田原氏が上祐氏に「キリストの復活についてどう思うか」と問う場面、オウムとダライ・ラマとの金銭的なつながりに関する証言、オウムを「ミニ大日本帝国」だと論じる場面などが印象に残った。


全体を読み終わってみてもやもやとした感覚が残るのは確かだが、カルト教団の中枢にいて、そこから脱却した(とされる)ひとりの人間の証言として面白かった。

さようなら波平さん

サザエさんの波平役をされていた永井一郎さんが亡くなられた。


サザエさん、うちの子供達も毎週楽しみにしていました。実は、奇しくもと言うべきか、昨日の放送では波平が童心に返るという内容の話になっていました。強面の波平が、お風呂でアヒルのおもちゃと遊ぶ姿を見て、そしてカツオ達に混じって野球で泥だらけになって帰宅する姿を見て、子供たちはおそらく今までも最も愉快に笑っていたと思います。


波平役は番組スタート時からということなので約半世紀に及ぶことになります。ちなみに、KDDIのClose upインタビューというコーナーでは

映画「スターウォーズ」日本語版制作時には、ヨーダの声役の候補に挙がったのか、ジョージ・ルーカス監督から「ナガイは英語は話せるのか?」と、出演を打診されたことがある。

とありました。→http://archive.is/awVLH



今回突然のお別れとなりとても寂しいです。今まで長きにわたって家族で楽しませてもらいました。本当に有難うございました。


朗読のススメ (新潮文庫)朗読のススメ (新潮文庫)
永井 一郎

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『ヒトはなぜ病気になるのか』読んだ

『ヒトはなぜ病気になるのか』を正月に読んだのでご紹介。


ヒトはなぜ病気になるのか (ウェッジ選書)ヒトはなぜ病気になるのか (ウェッジ選書)
長谷川 眞理子

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この『ヒトはなぜ病気になるのか』はウェッジ選書の一冊として出版されているのですが、このウェッジ選書というのはそもそもなんだろうか? そこから気になっちゃったのでちょっと調べてみると、JR東海グループの出版社だそうで。そうかあのWEDGEか! ということでひとつスッキリしました。


この本は「進化医学、ダーウィン医学と呼ばれる新しい分野」について平易に書かれた解説書という感じの本です。進化医学というのは、ソチ・オリンピックや都知事選ほどは話題になっていませんが、大阪都構想くらいの盛り上がりを見せている分野です。例えが分かりにくいですが、他意はございません。


進化医学がどういうものかというと「ヒトという動物の進化の歴史を見ながら、ヒトと病気というやっかいなものとの関係を探っていく」学問だそうです。そう言われてもちょっとまだ実態がつかみづらいと思いますが、例えば、本書で解説されている疾患の中では椎間板ヘルニアが分かりやすいかもしれません。都知事選に出馬するくらいの方ならご存知かもしれませんが、人類は直立二足歩行をするイカした哺乳類です。もうすぐソチ・オリンピックですが真央ちゃんがああしてぴょんこらぴょんこらジャンプできるのも直立二足歩行という移動様式を人類が採用したお陰でしょう。トリプルアクセルに挑戦しようとして佐藤コーチに止められるシロクマとかいないでしょ。脱線してみました。


さて、四足歩行する場合と直立二足歩行する場合を比較すると、背骨にかかる重力の作用がまったくことなります。まったく異なるので180度違うと書きそうになりましたが、実際には90度違っていました。ややこしいですね。直立二足歩行では、「背骨が地面に対して垂直に伸び」ています。背骨(脊柱)というのは、椎骨と呼ばれる小さな骨が連なってできているのは、東京オリンピックを目指す少年少女達もよく知っていると思います。知らなかったという人は「椎骨最高!」でググってみてください。そして、その椎骨と椎骨の間に挟まれて大変な思いをしながら我々を支えてくれているのが椎間板です。事情があって厳密な話はできないのですが、大まかに言って、この椎間板に過度な負担がかかって椎間板がプシャーってなってはみ出ちゃって、周りにある神経を圧迫してイテテとなるのが椎間板ヘルニアの病態です。


で、しつこいですが、この過度な負担がかかるというのは、人類の背骨が地面に対して垂直に伸びてて、重力の作用が椎間板がプシャーってなりやすいようになっていることが関係しているというわけです。確かにヘルニアのライオンとかあまり聞きません。大西ライオンはひょっとするとヘルニアかもしれませんが、そてはまた別の話だと思います。


この椎間板ヘルニアという疾患を進化生物学的視点から眺めてみると、「進化がつねになんらかの妥協の産物であることからくる不具合」ということがわかります。つまり、進化というものは、いったんすべてをリセットしてゼロからすべてを作りかえることで生じるわけではなくて、「それ以前に存在したものをもとに、こっちを少し、あっちを少しと変えて出来上が」るという連続性を大原則としているわけです。直立二足歩行というものに適した構造をゼロから組み立てることができれば人類もヘルニアレスな生物になっていたのかもしれませんが、実際には四足歩行をするご先祖様の基本的形態を引き継いだまま直立二足歩行に移行せざるをえなかったわけでして、そのあたりの事情は察していただければと思います。


さて、本書の構成です。

  • 第1章 病気はなぜあるか?

イントロ的な部分です。進化とは何かというとこから説きおこすのでまあ大変。本書全体で約200ページありますが、第1章だけで約40ページが費やされています。ちょっと詳しい方にはまどろっこしいかもしれませんが、丁寧に解説されていたので私には分かりやすかったです。

  • 第2章 直立二足歩行と進化の舞台

人類の進化の歴史と病気との関係を、直立二足歩行の採用という部分に特に注目して解説しています。鬱蒼とした森林での生活を捨てて日差しの強いサバンナに進出したことでエクリン腺が!エクリン腺が!というような話とかも出てきますので、サバンナの八木さんにも是非読んでみてほしいです。椎間板ヘルニアの話もここで出ていました。ブラジルのみなさーん、ヘルニアですか? みたいなイメージでしょうか。分かりません。

農耕開始に伴う栄養摂取パターンの変化と病気との関係が扱われています。

  • 第4章 感染症との絶えざる闘い

感染症の話です。段々説明が適当になっている気がするかもしれませんが、気にしないで下さい。

  • 第5章 妊娠、出産、成長、老化

個人的にはここが一番面白かったです。この章で分娩のシグナルの話が出てきます。つまり、どういう条件が整うと子宮の外に出ることになるのかという問題です。詳しくは本書に直接当たっていただきたいのですが、どうもこれには胎児側の栄養要求量と母親側の栄養供給量のバランスが関係していそうだというのです。


この第5章ではこれ以外にも「出産に適した環境」という話題が出ていて、グアテマラのドゥーラと呼ばれる習慣が紹介されていました。ドゥーラというのは、これから出産する産婦に付き添う人のことなんだそうですが、助産師のような出産に関わる専門職ではありません。それどころか産婦と親しい人である必要もないのだそうです。「ただ、産婦といっしょにいて話をし、そばにいて激励し、安心させる役目をおった人間」なのだそうです。このドゥーラがいる場合といない場合での、分娩や母子関係への影響を調べた研究結果が紹介されていたのですが、これにはぶったまげました。興味ある方はどうぞ。

『20歳のときに知っておきたかったこと』読んだ

遅ればせながら『20歳のときに知っておきたかったこと』を読んでみました。70歳位になるまで我慢しようかなとも思いましたが、我慢できずに読んでしまいました。

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
ティナ・シーリグ,Tina Seelig,高遠 裕子

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本書の著者紹介欄を見てみると、著者のTina Seeligさんは、スタンフォード大学アントレプレナー・センター、スタンフォード・テクノロジー・ベンチャー・プログラムのエグゼクティブ・ディレクターという一見するとインチキくさそうな肩書きになっていますが、想像するに大変有能な方なのでしょう。講演している彼女の姿をyoutubeで拝見しましたが、英語の堪能な高畑淳子さんという印象でした。個人の感想です。英語が苦手なので何を言っているのかまったく分かりませんでしたが、途中で笑いも起きていたのでひょっとするとダジャレとかも凄く上手いのかもしれません。個人の感想です。
http://www.youtube.com/watch?v=VVgIX0s1wY8


本書の内容を私が説明するのも僭越な気がしますが、暴力的に要約すると、手を変え品を変え「自分の殻を破れよオラ」と言っているような気がしました。自分だけだと頼りないので著者自身の言葉を借りると次のような説明になります。


p. 215

この本の物語で伝えたかったのは、快適な場所から離れ、失敗することをいとわず、不可能なことなどないと呑んでかかり、輝くためにあらゆるチャンスを活かすようにすれば、限りない可能性が広がる、ということでした。もちろん、こうした行動は、人生に混乱をもたらし、不安定にするものです。でも、それと同時に、自分では想像もできなかった場所に連れて行ってくれ、問題がじつはチャンスなのだと気づけるレンズを与えてくれます。何よりも、問題は解決できるのだという自信を与えてくれます。


よく考えると飲み屋でくだをまいているおじさんでも、同じようなことは言ってそうな気もしないでもないですが、なにせ相手はスタンフォードの先生ですからね。本書を読み進めていくと、「快適な場所から離れ」たことによって「自分では想像もできなかった場所に」たどり着いた数々の具体例が提示してあって、確かにテンションが上ります。飲み屋のおじさんとはそこが違うような気がします。


そう考えると、飲み屋で知り合った団塊の世代のおじさんに激励されるのはかなわんけれども、厳しい日常の中でなんらかの刺激がほしいという若者向きの本かもしれません。本書の註に本書の内容に関連する動画がたくさん紹介してありました。多くはSTVP(Stanford Technology Venture Program)が提供している「ecorner」というサイトで見ることができます。本書によると「起業家精神、リーダーシップ、イノベーションに関するビデオ、ポッドキャストが次々に追加されている」のだそうです。


それからこの註には、「ecorner」で視聴できるもの以外にも面白そうな事例が紹介されていたので以下にいくつかのせておきます。


OneRedPaperClip ABC 20/20 - YouTube
一個の赤いペーパークリップから物々交換で一軒の家を手に入れるお話です。これは第一章で紹介されています。

  • 分子調理法で有名なシカゴのレストランMOTO


Chicago Molecular Gastronomy Restaurant Moto ...
MOTOの事例は第三章で出てきます。

  • Awareness test


Test Your Awareness: Do The Test - YouTube
「白い服のチームが何回パスするか数えて下さい」っていうやつですね。これは第七章で紹介されていて、身近に凄く面白いことがあるのに注意深く見ているようでもそれに気付かないものだという文脈で出てきます。

  • リンダ・ガスの絵

http://www.lindagass.com/
彼女の事例は第八章で紹介されていて、「一度にふたつ以上の望みをかなえる方法はたくさんあります」という話題の中で紹介されていました。




とにかく、面白い逸話満載でしたが、私が一番共感した小話を引用しておきます。どういう文脈でこの小話が紹介されていたのかは直接本書にあたってみてください。

戦闘機のパイロットの候補生ふたりが、互いに教官から受けた指示を披露し合いました。ひとりが、「飛行の際のルールを一〇〇〇個習った」というのに対して、もうひとりは、「わたしが教えられたのは三つだけだ」と答えました。一〇〇〇個のパイロットは、自分の選択肢が多いのだと内心喜んだのですが、三個の方はこう言いました。「してはいけないことを三つ教えられたんだ。あとは自分次第だそうだ」。

それでは今年もよろしくお願いします。

西郷隆盛  死にたがる大巨人

西郷隆盛と幕末維新の政局 体調不良問題から見た薩長同盟・征韓論争』を読んだ。面白かった。


西郷隆盛と幕末維新の政局: 体調不良を視野に入れて (大阪経済大学日本経済史研究所研究叢書)西郷隆盛と幕末維新の政局: 体調不良を視野に入れて (大阪経済大学日本経済史研究所研究叢書)
家近 良樹

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西郷隆盛像というものがある。上野の西郷像ではないよ。西郷にまつわるイメージという意味での西郷像である。著者の家近さんは「ステレオタイプ化された西郷隆盛像」を次のように描く。

豪放磊落で小事に拘泥せず、寡黙でたくましい肉体と精神をあわせ持ち、かつ茫漠・茫洋とした風格を漂わせ、廉潔で決断力に富む大人物としての西郷隆盛像である。


確かに西郷どんと言えば私もそういうイメージを抱きます。もう少し具体的に言うとCMに出たとしても「チョコモナカジャーンボ!」とか歌わなそうな感じです。しかし、著者は、こうした西郷像をバッサバッサと辻斬りにしていくので痛快です。

西郷に関しては、研究者の中にも大変包容力があり、東洋豪傑風の清濁併せ呑む人物であったとの評があるが、これは西郷という人物を理解していない評である。


われわれが西郷に付与する「仁者」的な人物像というのは、あくまでも「後年のこと」であり、しかも「その対象は著しく限られる」という。本書が追う「西郷のありのままの姿」というのは非常に興味深い。ちなみに、「西郷のありのままの姿」と聞いて西郷の全裸姿を思い浮かべてしまった方もおられるかもしれないが、おそらくそれは「ありのままの姿」ではなく、「産まれたままの姿」であろう。全裸の西郷どんを思い浮かべてしまった方は充分に反省して欲しい。


話が逸れた。


それでは、ありのままの西郷とはどのような人物だったのか。西郷という男は実は「もともとストレスをためやすい個性・資質の持ち主であったこと」が第二章の前半で説明されている。詳細については本書に直接あたっていただきたいのだが、そこで描かれる西郷は、相手の心理をこまかく分析して色々と策を巡らすのだ実際に蓋を開けてみるとその目論見があっさり外れてしまうという「馬鹿な考え休むに似たりボーイ」的な一面も持ち合わせていることがわかって面白い。そして、このストレスを受けやすいという「本来」の西郷の個性・資質というものが、彼の「極度の体調不良状態」と少なからず関係しているのではないかというのが著者の主張のポイントのひとつとなる。


西郷の資質に加えて、彼を取り巻く環境が尋常ならざるほどにストレスフルであったことも丁寧に解説されている。これも詳細は本書に譲りたいと思うが、やはり大嫌いな久光に仕えなければならない星のもとに産まれたことが西郷の最大の不幸であったということになろうか。


また、西郷の資質という意味では、やはり西郷の死との距離感というのも注目に値しようか。本書においては次のような記述がある。

西郷の生涯を振り返った時、まず目に付くのは、彼の生涯が死の臭いに満ちていることである。ただし、それは強烈な臭いではない。というか、有体に書けば、西郷には生と死の境が元々それほどハッキリしていないような所がある。


さらに本書が面白いのは、西郷が死を意識したであろうイベントを丹念に追って行くことで、西郷の行動原理と言ってもいいようなものを炙り出している点にある。その行動原理とは「あえて死地におもむくことで、問題の根本的な解決を図るという行動パターン」である。そして、この行動原理をフリッツ・フォン・エリックのアイアンクローでギューっと絞り上げて濃厚なエッセンスだけにしたものが、いわゆる征韓論争での朝鮮使節志願時の西郷の一連の主張に現れているのだという。さらに重要な点は、この行動パターンは何も明治六年に突然出てきたものではなく、西郷の人生の節目節目に繰り返し表出するパターンであることが明らかにされている点である。


西郷の人物像、死生観ときて、本書のメインディッシュである西郷の体調不良問題に移ろう。ちなみに、本題に入ったかと思うといきなり脱線して恐縮だが、西郷の健康問題というと、中学か高校の歴史の先生が「西郷さんは、病気で金玉が腫れ上がってしまったせいで馬に乗ることができなかった」と言っていたことを思い出してしまうのだが、本書にその話は出てこなかった。


話が逸れた。


さて、最初に紹介した西郷の人物像とも関連するのだが、西郷どんと言うとエネルギーの塊のようなイメージがあって、病弱な印象はあまりないのではないだろうか。ところが、本書は「西郷が意外なほど病気がちであったという事実に着目」している。これについても詳細は読んでのお楽しみにしておきたいと思うが、本書で紹介されていた「病欠」の事例をざっといくつかあげてみる。


1855年 消化器系の異常により数十回もトイレに駆け込む。
1858年 入水自殺を試みる。奄美大島で流罪人同様の扱い。この間体調不良。
1862年 徳之島、沖永良部島での流島生活。過酷な環境でヘロヘロに。1864年に赦免。
1865年 禁門の変の後に、鹿児島に戻ると病に伏せる。
後藤象二郎との薩土盟約に関する重要な会合を体調不良で欠席。
1868年 体調不良のため北越出征軍の司令官として新潟に向かう日程が延期。
1869年 これまでの下痢に加えて下血を訴えるようになる。
1873年 明治天皇が西郷の体調を心配して自らの侍医を西郷のもとに遣わす。
    引き続く体調不良により朝鮮使節派遣に関する閣議などを欠席。


これだけでも充分に意外な感があるのだが、本書はさらに踏み込んで、西郷の極度の体調不良がもたらした心身の変化が、明治六年の征韓論政変において彼が異常なほどの熱意で朝鮮使節就任にこだわった背景にあると主張している。


確かに、本書で提示された資料に基づいて当時の西郷の行動が常軌を逸するものであったと主張することについては一定の説得力があるのは否定できないとも思うのだが、ここで悩ましい点もある。もしこの時の西郷が「著しく身心のバランスを欠く状態」にあったのが確かだとして、この時の行動パターンが年来のそれから大きく逸脱してものであったとしたら分かりやすい。しかしながら、西郷が明治六年に示した行動は、(著者自身が示してみせたように) 西郷が生涯に渡って示していた行動原理からいささかも逸脱していなかったのだ。となると、西郷があの段階で体調不良によって正常な判断ができない状態にあったのかどうかは判断を下すのは難しいという気もする。


さて、それはそれとして、本書の「はじめに」の中の「これまで日本の歴史があまりにも健常者中心の視点で叙述されてきた」という指摘はなるほどと頷かざるをえない。西郷の体調不良問題も面白かったのだが、第四章で少しだけ出てくる島津久光の体調不良問題の方がむしろ歴史的には重要な気がしないでもない。とにかく、「健常者中心の視点」から一歩抜け出ると本当に様々な歴史に新しい光が当てられることになるのではないかとワクワクしてくる。


著者の家近さんが、本書のテーマである体調不良問題に気づいたのは、ご自身が体調を崩されたのがきっかけだったという。あとがきによると、現代医学の力では根治が難しい大腸の疾患だということで、一ファンとしては心配でならない。せめて病状がコントロール可能な状態が維持されて、家近さんのお仕事が今後も進められて我々を楽しませてくれることを願っています。