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『羊と鋼の森』を読んだ。

読書 育児

羊と鋼の森』を読んだ。


羊と鋼の森
羊と鋼の森
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宮下 奈都
文藝春秋
売り上げランキング: 1,192



ピアノの調律師の青年が主人公の小説であった。彼が調律師として、そして人として成長する姿が描かれている。2016年本屋大賞第1位だったらしい。確かに読み出すと止まらずに一気に読んでしまった。調律師としての側面がやはり最も面白いのだが、それ以外にも弟との「和解」の場面、また主人公が調律を担当する家の双子の姉妹の「決断」の場面なども読み応えがある。


ただ、あえて難癖をつけるとすれば、なんというか「汚れた」要素がどこにも見当たらない小説と言えばいいのか、誰にでもある心の闇のような要素は完全に排除されている。それによってファンタジーのような要素がこの作品にもたらされているのかもしれない。


こどもにすすめられて読んだ最初の小説となった。

今年も読めなかったけど来年こそは読みたい本10選

今年はあまり読書の時間を確保できませんでした。来年はなんとか時間を確保していきたいものです。みなさまも良い本と良いお年を。


1



2

子どもの教育 (シュタイナーコレクション)
ルドルフ シュタイナー
筑摩書房
売り上げランキング: 31,080



3

人さまざま (岩波文庫 青 609-1)
テオプラストス
岩波書店
売り上げランキング: 33,457



4

書くことについて (小学館文庫)
スティーヴン キング
小学館 (2013-07-05)
売り上げランキング: 5,901



5

1つぶのおこめ―さんすうのむかしばなし
デミ
光村教育図書
売り上げランキング: 26,547



6

文庫 自動車と私 カール・ベンツ自伝 (草思社文庫)
カール ベンツ
草思社
売り上げランキング: 140,695



7


8


9


10

ヒトは食べられて進化した
ドナ・ハート ロバート W.サスマン
化学同人
売り上げランキング: 210,325

『習得への情熱―チェスから武術へ―』を読んだ


原題は『Art of learning』。著者はジョッシュ・ウェイツキン。チェスの神童と呼ばれ、彼の父が息子を題材にして執筆した『ボビー・フィッシャーを探して』は映画化もされている。また、長じて太極拳の世界選手権覇者となったという変態的な人らしい。そんな人が「まなびの術」を語った本。

インスピレーションを得るための公式や型紙は存在しない。だけど、それを得る自分なりの方法を発見するために辿るべきプロセスならある。


と語られているように、「中学英語を3時間学ぶだけで猿でもわかるチェスのすべて」とかいう類のマニュアル本というのとは違います。むちゃむちゃ努力しているのが分かります。だけど努力をする際の意識付けなどによって上達の速さや到達点は自ずと変わってくるし、その意識付けの方法論にはこれこれこういうのがありますよというような内容でした。ざっくり言うと。だから読む人が何を求めるかによって合う合わないはあるでしょう。ただまあ自伝的要素が強いのでそれだけでも面白いのは面白いです。


一番印象に残ったのは以下の文章でした。

それはもはや数え切れない時間だけれど、そうやって毎回その日の勉強を終えるたびに、疲労困憊しながらも、自分の限界の外側にあるチェスの可能性について、ほんの少しだけ、ほんの微かではあるものの、理解できたのではないかという希望で心が満たされるから不思議だ。

ボビー・フィッシャーを探して
フレッド・ウェイツキン
みすず書房
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『教養としての認知科学』を読んだ

『教養としての認知科学』を読んだ。


教養としての認知科学
鈴木 宏昭
東京大学出版会
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今晩の鳥貴族ですぐに役立つオモシロ知識満載だった。

さらに衝撃的な話もある。ヨハンソンたちが行った実験では、参加者に二人の女性の顔写真を見せ、どちらが好きかを選んでもらい、その写真を直後に再度提示してその理由を尋ねる。ただ、時々手品を用いて、選んでいないもう一方の女性の写真を見せて、それを選んだ(?)理由を尋ねる。ところが、この入れ替えの手品に気づく人はたったの一三パーセントでしかないという。


もちろん単なるオモシロ知識が羅列されているわけではなく、認知科学の基礎となるトピックが分かりやすくまとめられている。鳥貴族では役に立たないかもしれないが、とにかくフンフンへーとうならされる事例がたくさんでてくるのだ。例えば「4枚カード問題」というのが紹介されていて、人間の推論の様式が、提示された問題の文脈に応じて変化することが、単純な実験で炙り出される様が示されている。


ちょっと詳しく感想書く時間ないですけどこれはいい本でした。面白いです。鳥貴族行ってきます。

『青い鳥』(重松清)を読んだ

読書

重松清さんの短編集『青い鳥』を読んだ。


青い鳥 (新潮文庫)
青い鳥 (新潮文庫)
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重松 清
新潮社
売り上げランキング: 6,220


この短編集の主人公「村内先生」は作中で生徒に次のように語りかける。

 なあ、篠沢さん、うまくしゃべれないっていうのは。つらいんだ。自分の思いが。伝えられないっていうのは、ひとりぼっちになるって。ことなんだ。言葉が。つっかえなくても。自分の思いが。伝えられなくて、わかってもらえなくて。誰とも。つながっていないと思う。子は、ひとりぼっちなんだよ、やっぱり。
 でもなあ、ひとりぼっちが二人いれば、それはもう、ひとりぼっちじゃないんじゃないか、って先生は思うんだよなあ。
 先生は、ひとりぼっちの。子の。そばにいる、もう一人の、ひとりぼっちになりたいんだ。だから、先生は、先生をやっているんだ。


「文庫版のためのあとがき」で著者の重松清さんは次のように語っている。

 しゃべろうとすると言葉がつっかえてしまうひとを主人公に据えたお話は、『きよしこ』につづいて、これが二作目である。なぜ繰り返し書くのかと問われれば、僕も吃音だから、としか答えられない。

『きよしこ』を読んだ

久しぶりに『きよしこ』を読んだ。吃音の少年の物語だ。



きよしこ (新潮文庫)
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重松 清
新潮社
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 うつむいて、ぼそぼそとした声で話せばいい。ひとの顔をまっすぐに見て話すなんて死ぬほど難しいことだと、ぼくは知っているから。
 ゆっくりと話してくれればいい。君の話す最初の言葉がどんなにつっかえても、ぼくはそれを、ぼくの心の扉を叩くノックの音だと思って、君のお話が始まるのをじっと待つことにするから。
 君が話したい相手の心の扉は、ときどき閉まっているかもしれない。
 でも、鍵は掛かっていない。鍵を掛けられた心なんて、どこにもない。ぼくはきよしこからそう教わって、いまも、そう信じている。


吃音についてはこんな記事を紹介していた→「吃音を取り巻く現状についての解説記事 Listen to the lessons of The King's Speech」
non-rolling-dig.hatenadiary.jp

『明治百年 もうひとつの1968』を読んだ

読書 社会

明治百年―もうひとつの1968
小野 俊太郎
青草書房
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1968年。明治維新から100年目。フランスの五月革命に代表される若者の叛乱が各国で起きていた。日本でも大学闘争が拡大し、東大では安田講堂などが学生等によってバリケード封鎖され、東大の卒業式は中止に追い込まれる。また、この年10月の国際反戦デーでは「東京の新宿駅に一万五千人以上の学生が集まり、その一部が駅を占拠して解放区としたせいで、二十二日の深夜0時過ぎに騒乱罪が適用」され、743人が逮捕されるに至った。いわゆる「新宿騒乱」である。こうした「事件」に代表されるように、60年代後半と言えば「政治闘争」の時代として記憶されている。


しかし、と著者は訴える。

あたり前だが、日本全国がどこでも均一な政治意識をもっているわけではない。(中略)エリート主義的な臭いの抜けない大学闘争の観点からでは、どうしても見方が偏ってしまう。では、それ以外の多くの場所では平凡な日常生活が繰り返されていたにすぎないのだろうか。国民は「情報弱者」の群れであったり、「一億総白痴」(大宅壮一)だったのかーいや、そうではあるまい。人々は、変化をもっと身近な出来事から感じていたのだ。


さらに著者が1968年に注目する理由はこれだけではない。少年マガジン誌で『あしたのジョー』の連載が始まり、『巨人の星』のアニメ版放映が始まり、3億円事件が起きた1968年に「今の状況とつながる重要なシステムの書き換えや新しい出来事が起きて」いたというのだ。それは霞が関ビルのオープンであり、自動券売機の配備であり、ポケベルの利用開始であり、郵便番号の導入であった。また、原子力発電の商業利用が承認されたのも1968年だという。それゆえ1968年における「社会の動きを作りだした背景を探」ることで、「過去を振り返って進むうえでの分岐点が間違っていたり、誤りを正せる瞬間を見つけることができるのならば、現在からでも過去の誤謬を修正できるかもしれない」と著者は本書のあとがきで述べている。


本書で様々な事件、事象が並べられ、順にそれを眺めていくことで、この年に何が起きていたのかを知識としてつかむことはできた。またそうした事象多様性から、当時の人々の意識の多様性が朧気ながらつかめるような部分もあった。しかしその一方で、私自身は1968年にはまだ誕生していないということもあり、肌感覚としてこの時代が理解できるわけではないな、などと思ったのだが、実はよくよく考えてみると、周囲の人々が何を考えているのかということは現在という同時代のことですら分かってないわということに気付いてショックを受けた。もっと言えば、他者の理解ができないということだけでなく、私自身が現在起きている様々な事象ーそれは安保法制や原発などの政治問題であったり、子育てや介護などの社会問題であったりと様々なのだがーに対してどういう態度をとるべきなのか決めかねている、というか決めかねているうちに事が進行するままに任せるという態度が常態化していることに気付いて戸惑ったり狼狽えたりしてしまった。